内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

新しい社会存在の哲学の構想のために(その3)

2013-10-16 01:03:00 | 哲学

 今朝(15日)プールの門前には、私が着いた7時5分前にはすでに7,8人待っていたが、ほどなく職員が監視員のストライキで今日はプール閉鎖と伝えに来る。納得が行かずに職員に説明を求めている人もいたが、経験からこういうときは無理に決まっているとわかっているので、さっさと諦めて帰宅する。
こうして「浮いた」時間で明日の修士の授業の準備と仕事上のメールの処理を済ませ、明日のイナルコの「同時代思想」の準備に集中する。すでにこのブログで話題にしたことだが、明日は田辺元の「種の論理」がテーマ。アルザスでの9月末の発表、11月初めのベルクソン国際シンポジウムでの発表、それに同月23日のイナルコでの発表は、すべて〈種〉の問題をめぐっており、特にアルザスでの発表は田辺の「種の論理」そのものを取り上げたことはこのブログでも9月後半に数回に渡って紹介した通りで、だから明日の講義の材料は既に十分整っていたこともあり、準備は順調に進み、昼過ぎには一応終えることができた。後は講義で引用する参考文献の箇所を確認するだけでいいだろう。
 この講義に登録している学生たちのために、毎回講義の前に、講義プラン・引用原文・参考資料を数頁にまとめたもの(私はそれらを fiches de cours と名づけている)を、Google Drive上でアクセス可能にしておき、各自それらを自分でプリントアウトして教室に持参するか、自分のノート型パソコンを持参して見るかしてもらうようにしているが、その作業もすぐに済ませた。追加資料はコピーして持って行くこともあるが、それも講義の後でGoogle Driveにアップすることのほうが多い。このようにして紙の資料は極力渡さないようにしている。
 先週の西田の「場所」に比べれば、難易度は下がるとはいえ、聞かされる学生たちにはものすごくハードな講義が続くことになる。これでは出席者も目に見えて減少するかもしれないが、そもそも日本学科の学部最終学年の選択科目に過ぎないこの講義に毎回20人以上も出席していることのほうが奇跡的なことなのであり、10人前後聴きに来てくれればこちらとしては十分にありがたい。

 さて、「新しい社会存在の哲学の構想のために」の連載は、今日から第2章に入る。西田とラヴェッソンの方法論上の相補性を論証するこの章が発表の中心になる。しかし、発表時間の制限からして、引用を多数交えた詳細な議論の展開はできないだろうから、当日は仏語原稿を端折って使うことになる。このブログには、だから、できるだけ元の原稿に忠実な再現を心掛けたい。

2 相補的な二つの方法-ラヴェッソンと西田
2.1 媒介的範疇としての種の問題
 西田は、しかし、自身の生命の思想の理論的欠陥に気づいていないわけではなかった。その欠陥は、個人と可変的な複数の人間社会からなる歴史的現実の世界との関係に関わる。この問題について理論的解決をもたらそうとするの西田の最後の思索の努力を、ラヴェッソンの『習慣論』の詳細な検討に充てられた論文「生命」(1944-1945)の最後の10頁ほどに見出すことができる。この努力は生命理論と社会理論との媒介を供給しうる論理の構築にあった(論文「生命」は第3節までで未完に終わったので、第3節末尾のこのラヴェッソン論の後に西田がどのような展開を考えていたのかは推測の域をでないが、西田がこの論文を脇にのけて、結果として最後の論文となる「場所的論理と宗教的世界観」の完成に迫り来る日本の破局をはっきりと予想しながら心血を注いだことは、西田の最終的な哲学的関心がどこに向かったかをよく示している)。西田がラヴェッソンの著作の中に探し求めたのは、種の問題を通じて明らかになってきた不可避的な理論的困難を乗り越えることを可能にする途であった。
 西田は、自身の歴史的生命の論理の構成の中に種の概念をとり込むことにそれまで十分に成功していなかった。そこでは〈一〉と〈多〉との矛盾的自己同一が理論構成上支配的な位置を占めていたからである。生命の世界の総体的な把握のために媒介的な機能をもつ種の概念を導入することの必要性をそれとして認めながら、西田は、種をそれ自体でつねに自己同一的なものとして考えることをきっぱりと拒否する一方、他方では、歴史的生命の世界の中での種の現実的実効性と、種が大文字の〈生命〉にも諸個体にも還元しがたいこととを主張する。種を個体レベルと普遍的レベルの中間に位置づけ、自己形成的な世界の創造性をそれによって基礎づけようとするのである。このようにして、西田は、差異化と統一化という、各個体に自己形成的な特定の形姿を与える対立する両ベクトルの中間に見出されうるはずの、何か多次元的なものを探求する。それがラヴェッソンにおいて〈素質(disposition)〉として考えられた習慣の概念の中に見いだせると西田は考えたわけである。この〈素質〉として考えられた習慣は、自然の只中にあって媒介項としての機能を果たすからである。ラヴェッソンの議論の展開に忠実に沿いながら(これは西田にあってはきわめて例外的な態度である)、西田は、その習慣論の中に、自然の可塑的な秩序に従って、種の概念を歴史的生命の論理の中に統合することを可能にする契機を捉えようとする。このとき、〈種〉は、可変的で中間的な生命の範疇として、生命の自己形成を現実に可能にするものと考えられているのであるが、しかもそこでは〈種〉を最終的に実体化することが注意深く避けられている。













最新の画像もっと見る

コメントを投稿