内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

新しい社会存在の哲学の構想のために(その2)

2013-10-15 01:51:00 | 哲学

 9月第2週以来いつもそうであるように、月曜日は丸一日、水・木の本務校での講義の準備。今日は比較的順調に捗り、午後5時過ぎにはあらかた片付き、今一息入れているところ。だが精神状態は昨日来決して良くない。簡単には解決のつかない問題と心配事とで心の休まるときはまったくない。しかし、何があっても昨日から始めた連載は続けよう。それが辛うじて耐え難きを耐えさせてくれるかもしれないから。
 今日の連載分は、仏語原稿とは大幅に異なる。というのは、仏語で発表する場合は、自分で仏訳した西田のテキストを多数引用し、コメントをつけながら話を進めなくてはならないから、かなり手続きが煩瑣になる。もちろん日本語で原文を読んでさえ、難解なテキストであるから、日本語で論ずるのであっても西田のテキストのコメントは不可欠とも言えよう。しかし、ここに学術論文そのものを掲載することが目的ではないし、西田のテキストにあたることは日本の方々には容易にできることでもあるので、テキストに即したコメントは一切抜きにして、西田のベルクソン批判の要点と補足事項のみを掲載する。

 西田がベルクソンの創造的進化における生命の哲学を批判するときに繰り返し言うのは、ベルクソンにおいては生命の連続性だけが強調され、その非連続性が積極的に考慮されることがまったくないということである。そのようなベルクソンの生命論に対して、西田は、真の生命とは、「非連続の連続」、「死して生まれる」あるいは「死即生」などの表現によって示されることがらであると規定する。
 これらの表現は、少なくとも次の二つのことを含意している。
 一つは、個々の人格的自己として生きられている私たち一人一人の生命は、非連続的だということである。つまり有限な死すべき存在だということである。たとえ生物学的には連続性のある親子であろうとも、「我々の人格的自己は親からも生まれない」という意味をもっていると西田は言う。つまり、真の生命は、親から子へと、世代から世代へと、一つの連続した流れとして形成されているのではなく、個々の掛け替えのない人格的自己として、非連続なものとして相対する個々の生命を介してのみ、生成するものなのだということである。
 もう一つは、〈生命〉は〈非生命〉によって媒介されることなしにはありえないということである。私たちの生命はそれを決して永続はさせない諸々の物質的制約によってのみ支えられうるのであり、それ自体で自足するような生命はありえない。この意味で、生は死を受け入れる限りにおいて生で有り得る。
ここで仏語での発表の際には、上記の問題点をよりよく照らし出すために、ベルクソンとジンメルの生命観の決定的違いついてのジャンケレヴィッチによる指摘を引用する。以下、その引用箇所の和訳である。

ジンメルは、「ベルクソンは、〈生命〉は存在するためにはまず〈非生命〉に転換されなくてはならないという深刻な悲劇性をもっていることに気づくことはなかったように思える」と書いている。「精神的文化の悲劇」は、まさに生の否定が生に内在しており、生はその実現のためにはそれを殺すその対立者を必要としていることにある。これがいわばジンメルの思想全体を貫く根本的なモティーフであり、それが、他の多くの点で類似点を共有するにもかかわらず、ジンメルをベルクソン思想に決定的に対立させているのである。ジンメルは、この二つの矛盾する契機を、直観的に生きられた一つの単純な行為の中に縮約させよう努めたのである。
Vladimir Jankélévitch, « Georg Simmel, philosophe de la vie » dans Georg Simmel, La tragédie de la culture, Paris, Payot & Rivage coll. « Rivage poche / Petite Bibliothèque », 1993, p. 67.