内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学(その9)

2013-10-09 01:16:00 | 哲学

 昨日完全には明日の学部1年生の講義の準備を終えることができなかった。午前零時まで頑張ったが、それを過ぎると集中力も落ちるし、翌朝の水泳にも差し支えるから(何が大事なのやら)、余程のことがないと零時以降は原則として仕事をしないことにしている。今朝(8日)は5時半起床。プールに行く前に簡単なメールの処理はすべて済ませ、7時にプールに行く。明日明後日とプールに行けないことがわかっているから、いつもよりハイペースかつ多めに泳いで気分一新。昼前に講義の準備は完了。午後はイナルコの「同時代思想」の準備に集中。途中、小林さんから先日送ったアルザスでの私の発表原稿についての感想が届く。温かい励ましととても貴重なアドヴァイスを頂戴する。すぐにお礼の返事。ベルクソン国際シンポジウムの主催者側の責任者の1人の方からもメールがあり、何度かやりとりする。シンポジウム当日、小林さんの仏訳原稿は私が代読、質疑応答の通訳も基本的に私が担当することで合意。これまでの経緯からして当然のことと思う。シンポジウムまであと1ヶ月を切り、動きが出てきた感じ。
 すでに話題にしたことだが、明日の「同時代思想」は西田の「場所の論理」が中心になる。しかし、いくらなんでも、なんの前置きもなしに「場所とはなにか」と話し始めても、学生たちにはまるでチンプンカンプンであろうから、まず『善の研究』の最初の1頁を一緒に読み、それにコメントをつけて西田哲学の出発点を確認してから、「自覚」を介して「場所」に至る西田哲学の展開を示した上で、論文「場所」から鏡に関する箇所を引用しながら「場所とはなにか」という問題に迫っていく。段取りとしてはこの夏の東京での集中講義のときとだいたい同じであるが、今回はフランス語であり、しかも哲学の素養があるとはかぎらない日本学科の学生たちが相手であるから、フランス語の文献(モーリス・ブランショ、ポール・クローデル、メルロ=ポンティ)なども比較対象として少し引用し、また彼らの関心が高い日本語文法の問題ともリンクさせながら話を進めていく。うまくいったかどうかは明日の記事で報告する。

 さて、「生成する生命の哲学」の連載は、今日で西田とメルロ=ポンティの比較論を終える。以降は、その最後に名前が出てくるミッシェル・アンリと西田の対質である。実はこの部分が一番問題を孕んでおり、不十分な展開しかできておらず、それもあって、博論の和訳は、メルロ=ポンティを扱った第4章までほぼ終わっていたのに、アンリを扱う最終章第5章をそのままの形で訳すわけにはいかなくなり、中断せざるをえず、そのまま日本語での出版を放棄してしまうことになってしまった。この機会にこの論文を読み直すことで、突破口を見つけたい。

 西田において、行為的直観は、〈見るもの-見えるもの〉でありかつ〈働くもの-受容するもの〉である我々の身体が、自らが生き住まう環境の中で実行する根源的な〈なす[faire]〉ことを意味している(この「なす」には、「成す」「為す」「生す」という三重の意味が込められている)。行為的直観を構成する二つの契機が、直観的契機と行為的契機とに区別されるのは、第一の契機が身体の受容性に対応し、第二の契機が身体の形成的活動性に対応するという意味においてである。前者は〈見る〉ことであり、後者は〈働く〉ことである。両者は世界における身体的存在にとって根源的な受容可能性と能動性とをそれぞれ指し示している。〈見る〉とは、常に開かれた一領野として自らを限定しつつ、そこに諸々の形を無限に受け入れ、迎え入れることであり、〈働く〉とは、無限に新しい形を迎え入れることができる領野と自己自身とに一つの形を与えることである。前者は受容的包括的な〈場所〉を、後者は限定的な形成活動を構成する。行為的直観において、両者は不可分であり、〈一〉をなしている。〈見る〉ことは、その領野において〈働く〉ものによって能動性を与えられ、〈働く〉ことは、それを受け入れ現実化する〈見る〉ものによってその場所を与えられる。
 この〈見る〉と〈働く〉との間の根本的な弁証法的関係は、〈見るもの-見えるもの〉でありかつ〈働くもの-受容するもの〉である我々の身体の二重の両義性の間に生じる一種の「交叉[chiasme]」として表現される。見ることによって一つの形を迎え入れることで、身体は受容することができるものとなり、働くことによって一つの形を自他に与えることで、身体は見えるものとなる。〈働くもの-受容するもの〉である身体は、諸々の形が与えられ受け入れられる可視性において具現化され、〈見るもの-見えるもの〉である身体は、能動性と受動性とが共に迎え入れられる受容可能性において自らを経験する。無限に受容的な受容可能性においてこそ、すべての限定された行為はそれとして現実化される。しかし、このような無限の受容性の原理が現実的な実効性をもつのは、我々の身体の各々が実行する〈なす〉ことによってのみである。このような根源的受容可能性は、それゆえ、「自己自身のうちに隠されままで、永久に眼差しを逃れる」本質のようなものではない(Michel Henry, L’essence de la manifestation, Paris, PUF, 1963, p. 482)。それは、我々の現象的身体を通じて、行為的世界において、自らをまさに〈生命〉として現象させるのである。