内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

新しい社会存在の哲学の構想のために(その1)

2013-10-14 02:09:00 | 哲学

 13日日曜日、朝プールに行った後は、一日ベルクソン国際シンポジウムの原稿作成に専念した。一応後は結論を書き加えるだけでほぼ完成というところまで来たが、その結論のためには田辺の「社会存在の論理—哲学的社会学試論」の中のベルクソンに言及している箇所を読み直す必要がある。明日月曜日から木曜日までは講義の準備と講義そのものとで、そのための時間の確保がきわめて困難だが、毎日少しずつでも読み、考えていこう。
 今日からは、そのベルクソン国際シンポジウムの仏語原稿の和訳を連載する。と言っても逐語訳ではなく、むしろ抄訳と言ったほうがいいだろうし、ラヴェッソン、ベルクソン、ジャニコー、西田らからの引用文の多くと、出典箇所を示すだけの脚注とは、これらをすべて省略する)。この連載も何回に渡るかはっきりとはわからないが、「生成する生命の哲学」の場合と同様に10回は超えることになると思う。発表要旨の和訳は9月16日の記事に既に掲載済み。

新しい社会存在の哲学の構想のために
西田によるラヴェッソン再発見

 ドミニック・ジャニコーは、ラヴェッソンの習慣概念のベルクソンによる解釈を批判しているところで、ベルクソンが習慣概念に与えた消極的な規定—「精神的活動のいわば化石となった残滓にすぎない」—を引きながら、「このほとんどラヴェッソンに似つかわしくない表現は『習慣論』の射程を矮小化している」と厳しく指摘している。おそらくベルクソンのこの同じ表現を、あるいは習慣について同様に消極的な考えが見られる『物質と記憶』あるいは『創造的進化』の箇所を念頭に置きながら、西田はベルクソンに対立する自分の立場を次のように主張する。

ベルグソンは習慣を生命の物質化と考へた。私は之に反しエラン・ヴィタールを能動的習慣の発展と考へるのである。ベルグソンは時間的なるもの主として空間的なるものを従と考へた。私はそれを逆に考へるのである(「行為的直観の立場」新全集第7巻、157頁)。

 そして、その数行後に次のように記す。

私は習慣について本文[「行為的直観の立場」のそれのことを指す。引用者注]を草した後、偶々、ラヴェーソンの「習慣論」を読んで、ラヴェーソンが既に習慣について深く考へて居ることを知つた。それは歴史的世界の実在性とまでに考へるものではないが、習慣について洞察に富んだ美しい考と云はざるを得ない(同頁)。

 論文「行為的直観の立場」が単行本『哲学論文集 第一』(1935)に収録される際に付加されたこの注記の注目すべき点は、西田が習慣についてラヴェッソンに近い考え方を『習慣論』を読む前にすでに持っていたことである。確かに、西田はすでにメーヌ・ド・ビランの習慣論については数度に渡り論じてはいたが、ラヴェッソンの『習慣論』固有の論点、ビランのそれとは異なり、理論的射程の深さから言えば遥かに重要な論点を、自分自身の習慣概念から、それとしてはっきりと捉えることができたのである。西田が感じていたラヴェッソンへのこの深い関心と否定しがたい親和性が、9年後の論文「生命」において、西田に『習慣論』を詳しく分析させることになる。一方、この西田とラヴェッソンとの親和性は、西田とベルクソンとの間の決定的な乖離がどこにあるのかを私たちに理解させてくれる。
 以下において、私たちは、まず、この西田とベルクソンの乖離の問題を検討し、次いで、西田のラヴェッソン『習慣論』読解を詳しく分析し、そして最後に、ラヴェッソンと西田によってもたらされた理論的成果から形成可能な新しい種の概念を提示する。その概念を出発点として構想されうる新しい社会存在の哲学には、ベルクソンも新たに大きな貢献をもたらすことだろう。