内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学(その3)

2013-10-03 03:49:00 | 哲学

 今日水曜日(2日)は1週間で一番ハードな1日。5時半起床。6時半アパートを出る。7時45分研究室着。8時から、修士課程1年の書類審査で不合格になった学生と面談。理由と今年1年になすべきことについて相談。8時45分から12時15分までは間に15分づつの休憩を挟んで3コマ。これらは1年生の「日本文明」の授業。大過なく終了。45分休憩して午後1時から3時まで修士の授業。今日は4人の学生のプレゼンテーション。4人とも外部から入学してきた学生でよくできる。内容もしっかりしている。聞いている学生からもかなり質問が出た。先週発破をかけておいたのが効いたようだ。先週は出席していたたった一人の男子学生は欠席だったので出席者は全員女子学生だったが、教室の雰囲気は適度に活気づいてやりやすかった。3時7分のパリ行きのRERに飛び乗ったところまではよかったが、この電車が徐行運転を繰り返し、シャトレー・レ・アールに着くのに1時間近くかかる。一旦アパートに帰り着いたのが4時半。30分休憩し、イナルコに出かける。今日の出席者は21名。先週と数名顔ぶれが変わったが、それほど出席者数に落ち込みはなかった。今日もまたしゃべり続けたが、テーマはすべてしゃべり慣れていることばかりなので、最後までペースは落ちず、学生たちの集中力も、途中若干の弛緩があったが、全体としては最後までよく維持されていたと思う。来週から、各回1人の哲学者を取り上げる。歴史的順序に従うので、トップバッターが西田幾多郎である。いきなりもっとも手強い強打者に当たるとも言えるが、学生たちの大変さはそれどころではないだろう。むしろ、登山の初心者にいきなり日本哲学者連峰中の最高峰にアッタクしろというのだから無茶な話である。しかも1回2時間だけで話すわけである。それも「場所の論理」に限って話す。どう話せば学生たちの興味を呼び覚ますことができるかという意味で、これは私にとってもチャレンジである。

 さて、「生成する生命の哲学」の連載第3回目。今日から、西田とメーヌ・ド・ビランとの比較という、より立ち入った分析に入っていく。

二、直接的自己経験としての内的生命 ―「自覚」と「内感」の交叉する場所 ―
(1)ビランに対する関心の持続と解釈の変化
 西田は、ビランの習慣論の鍵概念である「能動的習慣」に対して、自覚論の形成期から最後期に至るまで持続的な関心を示している。ところが、この概念に対する西田の解釈に、「行為的直観」の立場の構想を境として、重大な変化が起こる。この関心の持続と解釈の変化は、一方では、最後期において西田哲学にいかなる立場の転回が起こったかを、他方では、西田哲学がいかなる点においてビラン哲学と交叉し、またそこから離れていくかを、鮮やかに示している。
 ビランは「能動的習慣」と「受動的習慣」を区別し、この区別は習慣の形成を通じて顕在化させらせる知覚的能動性と感覚的受動性との区別に対応する。前者は、習慣化されるにつれ、より容易に、正確に、迅速になる能動的知覚として現勢化され、我々の原初的な意志の実現を可能にするものであるのに対して、後者は、習慣化とともに、初期に与えられた刺激に徐々に反応しなくなる受動的感覚として、意志の及ばない身体的反応へと還元されてゆく。西田は、意識の根底において現動する能動我の直接把握を考察する場面において、能動的習慣が我々に与える直接的な感覚と共に、「〈私〉の内的直接的覚知」が与えられることに注目する。つまり、西田が能動的習慣に関心を持つのは、それが〈私〉の内的直接的覚知と同一視されうると考える限りにおいてのことなのである。
 しかし、この同一視は、ビランのテクストに従うかぎり、正当化しがたい。というのも、ビランは、能動的習慣の形成には原初的意志の能動性の喪失という否定的側面が伴うことを、習慣論の初期から明示しており、まさにこの否定面が能動的習慣と〈私〉の内的直接的覚知とを同一視することを許さないからである。後者こそ、原初的意志の能動性の直接把握そのものにほかならず、それは原理的に能動的習慣の形成に先立つものである。ところが、西田は、この否定面を完全に無視することによって、能動的習慣を内的直接的に覚知される「能動我[moi actif]」の顕現と見なすのである。
 ここから、西田は以下のような議論を展開する。能動的習慣に伴う能動的感覚によって能動我に直接与えられる確実性は、能動的習慣によって獲得される確信の内容として具体的に現実化されるとともに、この確信の内容は、自らが確実で疑い得ぬ知識であることの根拠を、この能動我によって明白な感情として経験される確実性に直に置いている。かくして、明白な感情は、単なる内的知覚としてではなく、能動的習慣の形成を通じて、客観的世界の構成として表現される。能動的習慣は、原初的意志的努力の原因としての能動我が感じる主観的確実性が、一つの客観的認識の世界として実現化される、能動我の自己超越の契機であるとされる。つまり、「習慣というのは認識対象界に映されたる能働我の内容である。」しかし、ビランによれば、まさにこの習慣こそが我々の認識を固定化させ、その起動因である能動我による意志的努力に伴っていた明白な感情を失わせる「盲目的な力」なのである。この能動我を超越的自己と置き換えることによって、自然的世界の成立とその内的把握の可能性へと西田が議論を拡張していくとき、ビランとの乖離は決定的であるように思われる。なぜなら、アンリ・グイエが指摘しているように、原因としての能動我は、〈私〉における「具体的で特殊な所与」であって、この〈私〉よって生きられるほかなく、決して普遍化されてはならないものだからである。