内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

新しい社会存在の哲学の構想のために(その7)

2013-10-20 01:57:00 | 哲学

 土曜日朝プール。2000メートル。帰り道にマルシェで野菜と果物を買う。午前中は、自分の発表原稿の書き上がっている部分の読み直し。細部にまだ必要な手直しを除けばこれでよし。後は書きかけの結論部に『道徳と宗教の二源泉』におけるベルクソンの〈種〉の概念とラヴェッソン・西田のそれとをどうリンクさせるかという問題について書き足せば一応仕上がる。その部分を書くための準備として、午後は、PUFの最新校訂版『二源泉』の索引を頼りに「習慣」と「種」について言及されている箇所を全部読み直す作業に専念する。

2.5 第二の交点―〈素質(disposition)〉概念
 西田とラヴェッソンの哲学の第二の交点は、〈素質〉という概念の中に見出すことができる。この概念が最初に現れるのは、『習慣論』のはじめの方で与えられる、習慣の次のような定義の中である。

一たび獲得された習慣は、一般的恒常的な存在の仕方であり、そして変化というものは一時的のものである故、習慣はそれの原因となる変化を超えて存続する。そして更に、習慣が習慣である限り、従ってそれの本質そのものによって、自らを生んだ変化にのみ関係するものであるにしても、それは、もはや無く未だ無いところの変化の為に、即ち可能的変化の為に、存続するのである。そこに習慣がそれとして認められるべき標識そのものがある。それ故習慣は、単に状態であるのみならず、素質であり能力である(岩波文庫野田又夫訳、7-8頁)。

 ここで 、« disposition » という言葉について、一つ特に注意を促しておきたいことがある。というのは、この引用でも、これまでの『習慣論』の引用のときと同様に、岩波文庫野田訳をそのまま踏襲して « disposition » を「素質」と訳したが、この語には、実はもっと豊かな意味の広がりがある。日本語で「素質」というと、潜在的能力という意味に限られがちだが、フランス語の disposition には、「配置」「傾向」「体質」さらには「自由に使える状態にあること」という意味もある。
 したがって、これらの意味を考慮しかつ『習慣論』の文脈にそって、習慣を定義すれば、「事物をある一定の秩序のもとに、以後自由に使えるような仕方で置き、それを維持する能力」となる。習慣とは、自らが生まれた世界の中にある一定期間存続する、ある新しい形の配置を与える能力のことなのである。ラヴェッソンによれば、この恒常的な構成能力であるところの習慣は、私たちに固有な意識において十全に現れる。意識においてのみ「習慣の範型」を見出すことができる。

元来機械的世界の宿命性から出て来た存在者が、機械的世界の内部に於て、最も自由なる活動性という完成せる形式の下に、姿を現わす。然るに、この存在者こそ我々自身である。ここに意識が始まり、意識の中に知性と意志とが輝き出るのである(同書24-25頁)。

 意識は、そこにおいて世界の配置がそのようなものとして直接に把握されるという意味において、まさに disposition である。逆に言えば、そのような能動的な配置が現れる〈場所〉、それが意識なのである。これが「場所的有」と西田が呼ぶところのものであり、それは本質と属性との関係によって規定される実体的存在に対立する。歴史的世界は、歴史を超えた自己同一的な実体的存在によって構成されれているのではなく、なんら超越的形而上学的な根拠なしに、配置能力としての意識の存在を通じて変化していく。このような意識存在は、作られたものから作るものへと、自らに自己形成的で可変的なある特定の形を自らに与えながら変化していく。配置能力として生きられた意識的生命は、このようにして、歴史的世界の只中に自らを置くのである。
 厳密な意味での個別的存在は、意識とともに始まる。この意識とは、世界の中のある一定の秩序の下に置かれた様々な形の自発的な「位置取り」のことにほかならない。私たちひとりひとりがそうである個別的存在は、だから、この世界の中に身体という形をとって自己形成する「場所的有」の自己限定として現れる。このように定義された意識的生命において、つまり優れた意味での人間的生命において、一個の存在は自らに対して具体的な姿をとって現れ、かくしてそこにおいて「世界が自覚する」のである。私たちにおいてこのようにして顕にされる習慣は、私たちの意識において直接的に把握されうるが、世界の自己形成に属する一つの事象であり、自己限定的世界が時間的空間的に自らを限定する過程にほかならない。