内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

あなたが悲しんでいる時、世界があなたにおいて悲しんでいる

2013-10-13 00:21:00 | 哲学

 ストラスブール大で2003年に哲学の博士号を取得した後、毎年いくつかのシンポジウム、研究集会等に参加してきたが、その時々で発表のテーマはそれぞれ違っていても、結局のところ、そこで扱われた諸問題はすべて博論で到達した根本概念である「受容可能性」から発しており、それらすべてが10年後の今になって、一つの「受容可能性の哲学」として私において組織化されはじめていることを、昨日までの「生成する生命の哲学」の12回に渡る連載を通じて、改めて自覚することができた。このことは、研究発表についてだけでなく、公刊された論文についても、大学での哲学の講義についても言うことができる。途方もない僭越であり、身の程知らずとも詰られかねないことを承知の上で、あえて西田の言葉を使わせてもらえば、「すべてはそこからそこへ」の感を深くしている。
 しかしながら、この「受容可能性」という言葉によって私が指し示そうとしている根本的な事柄が、聴衆あるいは読者に容易には理解されないこともしばしば痛感させられてきた。それは表現言語がフランス語でも日本語でも同様である。私の表現力がまだ不十分であることは自分でもよくわかっており、「受容可能性の哲学」はまだ組織化の緒についたばかりでもあるのだから、それ以前の段階の探索的な思索の一片を聞かされただけ、あるいは読まされただけの人たちがその理解の困難を訴えたとしても、それは無理もないことである。それに、これまでにこの概念について受けた批判の中にはまさに核心をついたものもあり、それらにまだちゃんと答えられていないという意味でも、難解・不可解あるいは脆弱の誹りは免れがたい。だが、それらの問題は今すぐに解決できることではなく、日々の思索を焦らず怠らず続けていくことでそれらに一つ一つ答えていくことが、これからの10年の仕事になるだろう。
 それに、もし「受容可能性」ということが世界における人間存在の根本的な存在様式を規定するのならば、それはまさにただ一人の例外もなく万人に関わる最も大切なことがらであり、それは哲学の専門用語を使わなくても表現され得なくてはならないとも思う。あるいは文学作品としてよりよく表現されうるかもしれない。残念ながら私自身にはそのような天分はまったく欠けていることは、学生時代に関わっていた同人雑誌の諸活動を通じていやというほど自覚させられてしまったが。ただ、今、もし誰かが、たった一言でその「受容可能性」とやらを言い表してみよ、と求めてきたたら、今日の記事の表題のように答えるだろう。
 「あなたが悲しんでいる時、世界があなたにおいて悲しんでいる。」