内的自己対話-川の畔のささめごと

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「憧憬」(Sehnsucht)は「郷愁」(nostalgie)ではない ― 哲学的考察の試み(一)そのきっかけ

2019-11-24 23:59:59 | 哲学

 一昨日金曜日のシンポジウムの最初の発表が九鬼周造の「いき」についてだったことや、修士の演習で、『陰翳礼讃』と『「いき」の構造』とボードレールおよびジャンケレヴィッチの美に関する言説とを比較することを発表テーマに選んだ学生がいることなどがきっかけで、先程、ちょっと『「いき」の構造』の序説を読み直していた。
 ある民族の民族性を示す特定の言葉が、他の民族では同様な体験が根本的なものになっていないために、欠落している場合がある一例として、ドイツ語の Sehnsucht が挙げられている。

陰鬱な気候風土や戦乱の下に悩んだ民族が明るい幸ある世界に憧れる意識である。レモンの花咲く国に憧れるのは単にミニョンの思郷の情のみではない。ドイツ国民全体の明るい南に対する悩ましい憧憬である。「夢もなお及ばない遠い未来のかなた、彫刻家たちのかつて夢みたよりも更に熱い南のかなた、神々が踊りながら一切の衣装を恥ずる彼地へ」の憧憬、ニイチェのいわゆる flügelbrausende Sehnen (翼をざわめかせる憧れ)はドイツ国民の斉しく懐くものである。

 この記述を読んで、Sehnsucht が昨日の記事で取り上げた翻訳不可能語辞典の一項目になっていたことを思い出し、そこを読んでみた。それがとても興味深い。今年の6月22日から24日までの記事で「なつかしさ」と「ノスタルジー」の違いについて若干の考察を試みて以来、ノスタルジーについて論文を一つ書こうと思っているが、その思いにこの辞書の一項目が弾みをつけてくれた。
 明日の記事から、いつまでとは決められないが、上掲独仏二語の表す根本感情の差異について哲学的考察を試みていく。まず、辞書の項目の内容を追い、次に、そこに引用されているいくつかの文献にあたり、その上で、手元にある関連文献を参照しつつ、考察を展開していきたい。












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