内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

天地有情から世界のロマン化へ ― 最後の大森哲学からノヴァーリスの夢へ

2013-12-17 02:50:00 | 哲学

 今日(16日月曜日)は、午前中、昨日の続きで大森荘蔵の仏訳。この講義用抜粋集は、大森荘蔵の諸著作から年代順に「さわり」を集めたもので、特に大森が独自の仕方で問題提起をしている箇所、あるいは大森固有の主張をしている箇所だけを選んでいるので、それぞれの置かれた文脈を講義の際には説明しないといけない。しかし、抜粋集の最後に選んだ文章だけは、全文掲げた。その全文を今日の昼過ぎに訳し終えた。その文章とは、大森が生前公表した最後の文章で、「自分と出会う ― 意識こそ人と世界を隔てる元凶」というタイトルで、1996年11月11日付朝日新聞に掲載された、全文で1600字余りの小エッセイである。『大森荘蔵セレクション』(平凡社ライブラリー、2011年)の四人の編者の一人、野家啓一によれば、「小論ながら、「最後の大森哲学」とでも呼ぶべき境位を示している」(同書361頁)。
 人は喜怒哀楽の感情を「心の中」にしまい込みがちだが、事態は逆で「世界は感情的なのであり、天地有情なのである」と大森は主張する。では、近代の宿痾とも見なされる心身二元論的構図から、大森の言う「人間本来の素直な構図」に立ち戻るのにはどうすればよいのか。そのために、「難解だけが売り物の哲学や、思わせぶりの宗教談義は無用の長物、ましてや、「自然と一体」などという出来合いの連呼に耳を貸す必要はない」と大森は言い切る。その直後の結論部にあたる最後の短い二段落をそのまま以下に引用する。

 我々は安心して生まれついたままの自分に戻れば良いのだ。其処では、世界と私とは地続きに直接に接続し、間を阻むものは何もない。
 梵我一如、天地人一体、の単純明快さに戻りさえすれば良いのだ。だから人であれば、誰にでも出来ることで、たかだか一年も多少の練習をしさえすれば良い。(同書455頁)

 だが、問題はまさにここから始まる、と私は考える。いわば私たちの心を世界に返還したところから、〈世界〉の問題が〈私〉の問題になる。そこにおいてはじめて、この世界において〈働く〉とはどういうことなのかが問われうる。このように言うとき、私の念頭にあるのは、12月15日付の記事で言及したノヴァーリスである。その哲学的断章の一つで、この「クリスタルの如く輝き、花粉の如く漂って止まぬ」と知友によって称賛された、ドイツロマン主義の最も輝ける若き天才は次のように言う。

世界をロマン化しなくてはならない。そのようにして初めて本源的な意味が再び見出される。ロマン化とは、質的な潜在性を充填することにほかならない。この過程を通じて、低次元の自己は、より良き自己に同一化される。私たち自身はこのような一連の質的力能なのである。この操作はいまだまったく未知のままである。日常的なものに高次の意味を、共通するものに神秘的側面を、既知のものに未知なるものの尊厳を、有限なるものに無限なるものの見かけを与えるとき、私はそれらをロマン化することになる。この操作は、最も高次のもの、未知なるもの、神秘的なるもの、無限なるものにとっては、逆転する。より下位のものとの繋がりによって、これらのものの逆転された操作は、論理的諸階梯に分節化される。この逆操作は、日常的な表現を受容する。

Novalis, Le monde doit être romantisé, Allia, 2008, p. 46.

 ここからまた新たな一つの哲学的思索・詩作が始まるだろう。












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