内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

大森荘蔵を日本語原文で読み、フランス語で哲学の議論をする

2013-12-16 01:06:00 | 哲学

 今日(15日日曜日)は、朝四時半起床。昨晩の就寝は午前零時前後で早かったわけではないのに、目覚めもすっきりとしていたので、ベッドからすぐに起き出し、水曜日の講義「同時代思想」のために大森荘蔵の抜粋集の仏訳を始める。抜粋集そのものは、すでに昨年の講義のために作って使ったものを再利用するのだが、昨年の講義では、授業中に口頭で仏訳をつけていったので、時間もかかり、テキストを全部読みきれなかった。今年も別に全部読む必要は必ずしもないし、二時間全部読解に充ててもおそらく完読は無理なのだが、昨年よりは解説的な話を減らし、テキスト読解により多くの時間を充てたいと思っている。
 というのは、前回までに取り上げた九人の哲学者・思想家たちの文章は、内容理解のことはさておいて、構文と語彙のレベルだけに話を限っても、学部三年生(フランスでは学部最高学年)にはいくらなんでも難しすぎて、結果として私が解説しながら訳していくのにもとても時間がかかり、彼らにしてもとても歯がたたない文章ばかり読まされて辟易しているところもあるだろうから、彼らの日本語能力でも構文的・語彙的には理解できそうな文章を最後くらいは与えたいというのが理由の一つ。
 もちろん、そのような消極的な理由からだけではなく、大森の文章が、現代の標準的な日常言語レベルの日本語で、どこまで徹底的に哲学的に考えることができるかということの、一つの良い見本であるからという積極的な理由もある。
 それに、去年の試験で、西田、九鬼、和辻、三木、丸山、大森の六人から選んだテキストを与え、その中から二つ自由に選び、両者を訳した上で、両者に共通する問題を引き出し、それについて論ぜよ、という問題を出したのだが、一番人気は大森、ついで九鬼であった。やはり、フランス人学生にとっても、大森の文章は与しやすしと見えるようで、それは他の哲学者の文章と比べれば当然とも言えるわけだが、それだけ問題そのものについてよく考えた答案も多かったのである。
 大森自身、大森の主張を繰り返すだけのエピゴーネンを軽蔑すると公言していたわけで、実際、彼の弟子たちは皆、彼に反論することで自らの哲学的思考を鍛えていった。私自身、彼の直弟子の一人の修士・博士課程共通演習に一年間出席したことがあるが、まさにそこでもその大森の哲学する姿勢は順守されていた。つまり、どんな主張も徹底的に吟味された。この演習のお陰で、哲学するとはどういうことか少しわかったような気がしたものである。今から二十年余り前の話である。
 大森の主張には、全然納得できないところも私自身多々あるし、今回仏訳しながら、構文として案外曖昧なところにあらためて気づかされ、そのあたりがちょうど問題の核心に触れているところでもあるので、今度の水曜日の講義では、大森の文章を日本語原文で読みながら、特に「立ち現れ一元論」と「ことだま論」について、学生たちとフランス語で哲学の議論をしたいと思っている。


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