内的自己対話-川の畔のささめごと

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他の詩人の詩を筆写する、「声」の到来を待つ、吉増剛造氏の場合 ― 夏休み日記(27)

2015-08-28 00:44:49 | 読游摘録

 昨日話題にした、詩を書き写すという行為が、単に詩作のための修練の一つとして行われるのではなく、言葉の生誕の秘跡に与る、ほとんど宗教的祈りとも言っていいような経験になりうることがリルケを読んでいるとわかる。
 しかし、他の詩人の詩を書き写すという行為が、一方で、その詩人への鎮魂の祈りであり、他方で、詩的創造の現場でもあることを、今年三月のアルザス・欧州日本学研究所(CEEJA)での「間(ま)と間(あいだ)」についてのシンポジウムの開会講演者であった吉増剛造氏の詩的実践から教えられた。
 二〇一二年三月十六日に吉本隆明氏が亡くなったあと、吉増氏は、吉本隆明の初期詩篇『日時計篇』の書写を始められたという。その詩集の全編四七九篇を、ほぼ毎日一篇ずつ、一年半近くかけて、筆写されていったという。そして、講演時現在では、二回目の全編筆写に取り掛かられているところであった。それら筆写された詩篇群の一部を講演会場である CEEJA までわざわざ日本から持ってきてくださった。張り合わされた四つ切の和紙の上に小さな字で隙間なく『日時計篇』の詩篇が書き写されていた。それは時に苦痛をさえ伴う行為であるという。自らの筆で記す文字によって紙の上を満たしていく言葉と言葉の裂け目から生まれてくる新しい「声」(吉増氏はしばしばこの言葉を使う)を詩人は聴き取ろうとする。
 その筆写の過程を説明しているとき、それまでは穏やかな調子で、ときにはユーモラスな語り口をも交えながら話されていた吉増氏が、「体を使わなければ駄目」と、そこだけは語調鋭く、おっしゃられたのが今も耳朶を打つ。
 詩は、頭で考えるものでないのはもちろんのこと、気分に任せて感情を歌うものでもない。詩は、日々の身体的実践の中から生まれてくる言葉を聴き取ることだ、と氏は仰りたかったのだと思う。他の詩人の詩を筆写するという身体的行為もまた、その実践の一つの形なのである。
 詩の筆写などという、とても時間がかかり、しかも、長時間継続すれば身体的にも苦痛を伴いかねない行為などに、一体何の意味があるのだ、まったくの時代遅れだ、と憫笑する、先端技術に淫した若い人たちもいるかもしれない。そんな行為はまったく非創造的だと嘲る、いわゆる「クリエイター」たちもいるかもしれない。
 私は、しかし、吉増剛造氏の実践に深く感動せざるを得なかった。詩の言葉の生誕の瞬間を捉えるために詩人がどれほどの身体的実践を繰り返さなければならないのか、それに慄きさえ覚えた。ただ言葉が生まれて来るのを待つのでもなく、言葉に無理強いをするのでもなく、言葉と言葉との裂け目から「声」が聞こえてくるのを、その到来を、つねに身体を働かせつつ、辛抱強く、注意深く、待つ。
 詩人の生きる姿は、私たちが日々消費する言葉の世界がいかに言葉にとって非本来的な頽落形態であるか、私たちに気づかせる。
 より大きな情報量をより速く処理することを強いられ、それを競うことで、現代の私たちの精神はすっかり疲弊しているように私には見える。
 しかし、それでもなお、たとえ詩人ではなくても、詩の言葉を筆写することによって、私たちもまた、本来的な言葉の到来を待つ姿勢を学ぶことが、まだ、できるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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