内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

新しい社会存在の哲学の構想のために(その11)

2013-10-26 02:01:00 | 哲学

 今さっき、ベルクソン国際シンポジウム責任者に発表原稿を送信した。ベルクソンの『二源泉』のあちこちを読み直しながら、同書のでの〈種〉概念について一日あれこれ考えたが、すでに連載第10回目に掲載した発表原稿最後の部分から、ベルクソンにおける〈種〉の問題について議論を展開させるには明らかにまだ準備不足でどうにもならず、今後の問題として簡単に触れるに留めざるをえなかった。これから発表当日まで、『二源泉』を読み直し続けながら、発表の際あるいはその後の質疑応答の際に少しは展開できるようにしておきたい。そんなわけで掲載するにも値しないかもしれないが、一応発表原稿の締め括りなので、その和訳を以下に掲げ、この連載は今日でひとまず終了とする。
 ラヴェッソンの習慣論と西田によるその解釈に基づいて再規定された〈種〉概念は、一方で、ベルクソンが『二源泉』の中で提示している種概念を、他方で、田辺がその絶対媒介の弁証法とともに構築した種の論理とを、新しい社会存在の哲学の構想のために、開かれ且つはっきりと限定された一つのパースペクティヴの中で検討することを私たちに可能にする。そこで問われうるのは、ベルクソンの『二源泉』において、その登場が「たった一人の個人からなる新しい種の創造」と見なされた「特権的な魂」の活動をいかに一つの社会の中に位置づけるかという問いである。また、同じくそこで問われうるもう一つの問いは、諸個人とそれらが属する社会との間の媒介的・可塑的範疇として新しい種を創造するための基礎理論として田辺の種の論理を機能させるためには、この論理をいかに社会存在の哲学の全体構想の中に統合するかという問いである。













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