内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日々の哲学のかたち(15)― 走り、書く〈私〉の可塑性

2022-06-21 03:50:30 | 哲学

 昨年四月まで十一年あまり水泳を続けていたことについて、その継続を可能にしていた理由はなんだったのだろうかと今あらためて自問するとき、その一つは、体は心よりも正直だ、と言うことができます。言い換えると、体への働きかけは、いや、もっと単純に言えば、体を動かすことは、それが理にかなった仕方で行われるとき、あれこれ考えて心のなかで気持ちだけを制御しようとすることよりも、はるかに確実な効果を心身に直ぐにもたらす、ということです。
 泳いだ後のあのなんとも快い全身的疲労感は、「今日も泳いでよかった」と毎朝泳ぎ終えた度毎に感じさせてくれたものでした。前日の疲労を引きずりプールに行くのがちょっと億劫になりかけていたときもときどきありましたが、そんな思いを振り切るようにプールに向かい、泳いだ後で後悔したことはただの一度もありませんでした。
 この一年余り、水泳はまったく止めてしまいましたが(ずっと通っていた市営プールの前を今は素通りするだけです)、それに代わってジョギングをほぼ毎日続け、それによる如実な体の変化とそれに伴う心の変化とを経験して、水泳のときとはまた違った、いや、より本質的だと思われる心身の認識を得るに至りました。難しげな言い方になりかけているので、そちらに傾かないように端的に言うと、奇妙な言い方に聞こえるかも知れませんが、私は自分の体に感謝したいのです。
 一昨日の日曜日、二十七キロ走り、走行距離のパーソナルレコードをまた更新しました。昨日の朝、十キロ走ったのですが、前日の疲れがまったく感じられないのです。老化によって神経が鈍化しているだけで、実のところ私の物理的身体はかなり疲労しているのかも知れません。その疑いは完全には払拭できません。しかし、たとえそうであったとしても、実際に走れてしまうのですから、疲労によって身体の機械的機能が低下しているわけではないとは実証できているわけです。
 私にとって、運動を続けることは、身体的能力の維持あるいは向上を主たる目的とはしていません。年齢からして、どう頑張っても、どのみち、遅かれ早かれ、下り坂です。数値的記録は自己観察とモチベーション維持の手段に過ぎません。体型の維持も最終目的ではありません。健康維持もほんとうの最終目的ではありません。
 なんらかの目的のためではなく、ただ端的に、私は走りうるものであることを日毎実証するために私は走っている。こう言うと一番気持ちに合っているようです。
 そう、このブログも、たとえその内容が傍から見ればどれほどつまらないものであるとしても、私は考えることができるものであることの私自身による日々の実証なのです。
 そして、日々走り続けることでその身体の動的な在り方を実証している〈走りうるものである私〉と、日々このブログを書き続けることでその精神の動的な在り方を実証している〈書きうるものである私〉とは、同じひとりの〈私〉であり、その〈私〉が可塑的存在であることを、走り、書くことで、私は実証し続けてきたのであり、これからもそれを続けていきたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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