内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日々の哲学のかたち(14)― 大理石の塊を受け取り、それを自分で像に刻む、ウイリアム・ジェームズ『プラグマティズム』より

2022-06-20 00:00:00 | 哲学

 自己形成過程を具体的に形象化するために、何らかの天与のものから自己像を彫刻のように徐々に刻み出していくという暗喩は、古代の哲学者ばかりでなく近現代の哲学者たちによっても用いられています。二十世紀の哲学者たちのなかではウイリアム・ジェームズをその一例として挙げることができます。『プラグマティズム』(一九〇七年)第七講「プラグマティズムと人本主義」の中に出てきます。彫刻の隠喩はすでに『心理学原理』(一八九〇年)に登場していますから、ジェームズにとっては思い入れのある形象だったのかも知れませんね。
 第七講の実在と真理との関係を論じている箇所に彫刻の隠喩は出てきます。ジェームズは、実在を三つの部分に分けます。第一の部分は、私たちの感覚の流れ。第二の部分は、諸感覚間の諸関係および私たちの心における諸感覚の模写間の諸関係、第三の部分は、前二者に対して付加的なもので、あらゆる新しい探究にあたって考慮されるべき「それ以前の真理」です。これら三つの部分の実在がいつでも私たちの信念の形成を支配しているとジェームズは考えます。これらの実在に対して、それらがたとえどれほど固定的なものであるしにしても、私たちはこれらを取り扱うにあたってはなおある自由をもっているとジェームズは主張します。
 ここから先は、ちょっと長いですが、ジェームズのテキストを読んでみましょう。まず岩波文庫版の桝田啓三郎訳を掲げ、その後に英語原文を付します。今日のところは、このテキストをじっくりと味読することにしましょう。

 ところで、実在のこれらの諸要素がどれほど固定的なものであるにしても、われわれはこれを取り扱うにあたってはなお或る自由をもっている。われわれの感覚をとってみよう。もろもろの感覚があるということは疑いもなくわれわれの支配を越えている。しかしどの感覚にわれわれが注意し、注目し、そしてわれわれの結論において力を込めるかということは、われわれ自身の関心に依存している。そしてわれわれの力の入れどころの異なるのに応じて、全く違った真理が形成されてくるのである。同一の事実でも、われわれの読み方は違っている。同一の固定した諸事実から成る「ウォータールー」という言葉は、イギリス人にとっては「勝利」を意味し、フランス人にとっては「敗北」を意味する。同じように、楽観的な哲学者にとっては、宇宙は勝利を意味するが、悲観的な哲学者には、敗北を意味するのである。
 われわれが実在について語ることは、このようにして、われわれが実在を投げ込むパースペクティヴのいかんに依存している。実在があるということは実在そのものに属することである。しかし、その何であるかはそのどれであるかにかかり、そしてそのどれであるかはわれわれに依存している。実在の感覚的な部分も関係的な部分もともに唖である。どちらもみずからについて何ごとも語らない。われわれがそれらに代って語らねばならぬのである。感覚のこの唖性はT.H.グリーンやエドワード・ケアードのごとき主知主義者をして、感覚をば哲学的認識の範囲外に押しのけさせたが、プラグマティストはそこまで進むことを肯じない。感覚というものは、むしろ事件を弁護士の手に委ねてしまって、快くあろうが不快であろうが、弁護士がいちばん有利だと信じて論述するいかなる説明にも虚心に耳を傾けていなければならぬ弁護依頼人のようなものなのである。
 それだから、感覚の領域においてさえも、われわれの心は或る任意な選択を行なう。われわれは含めたり省いたりしてこの感寛の領域を探索する。われわれが強調するものに応じてわれわれはこの領域の前景や背景を描き出す。われわれの定める順序にしたがってわれわれはこの領域をこの方向やあの方向に解釈してゆく。手短に言えば、われわれは大理石の塊を受け取るのであるが、われわれ自身でそれを像に刻むのである。
 このことは実在の「永遠なる」部分にも同じように当てはまる。われわれは内面的な関係についてのわれわれのいろいろな知覚をまぜ返して、それを自由に排列する。われわれはもろもろの知覚を或る系列としてまたは他の系列として理解し、この仕方であるいは他の仕方で分類し、その一つをあるいは他をより根本的なものとして取り扱い、その果てに、それらについてのわれわれの信念が、論理学とか幾何学とか算術とかとして知られる一団の真理を形づくることになるのであって、そのどれをとってみてもすべて、その全体が鋳込まれている形式と秩序は明らかに人為的なものである。

 Now however fixed these elements of reality may be, we still have a certain freedom in our dealings with them. Take our sensations. That they are is undoubtedly beyond our control; but which we attend to, note, and make emphatic in our conclusions depends on our own interests; and according as we lay the emphasis here or there, quite different formulations of truth result. We read the same facts differently. ‘Waterloo,’ with the same fixed details, spells a ‘victory’ for an Englishman; for a Frenchman it spells a ‘defeat.’ So, for an optimist philosopher the universe spells victory, for a pessimist, defeat. 
 What we say about reality thus depends on the perspective into which we throw it. The that of it is its own; but the what depends on the which; and the which depends on us. Both the sensational and the relational parts of reality are dumb; they say absolutely nothing about themselves. We it is who have to speak for them. This dumbness of sensations has led such intellectualists as T. H. Green and Edward Caird to shove them almost beyond the pale of philosophic recognition, but pragmatists refuse to go so far. A sensation is rather like a client who has given his case to a lawyer and then has passively to listen in the courtroom to whatever account of his affairs, pleasant or unpleasant, the lawyer finds it most expedient to give.
 Hence, even in the field of sensation, our minds exert a certain arbitrary choice. By our inclusions and omissions we trace the field’s extent; by our emphasis we mark its foreground and its background; by our order we read it in this direction or in that. We receive in short the block of marble, but we carve the statue ourselves.
 This applies to the ‘eternal’ parts of reality as well: we shuffle our perceptions of intrinsic relation and arrange them just as freely. We read them in one serial order or another, class them in this way or in that, treat one or the other as more fundamental, until our beliefs about them form those bodies of truth known as logics, geometrics, or arithmetics, in each and all of which the form and order in which the whole is cast is flagrantly man-made.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿