内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日本語で哲学する(二)― 日本語で生きられている「現象学的」態度

2015-02-28 05:45:21 | 哲学

 『万葉集』巻五・八九四の山上憶良の長歌にあるごとく、「大和の国」は、古来、「言霊の幸はふ国」ということになっている。ところで、現代日本は、どうであろうか。哲学の分野に話を限ると、かの「ことだま論」の大森荘蔵が孤軍奮闘の感があり、大森亡き後、大多数の現役哲学者および哲学研究者たちは、「コトダマ? ふん、なに寝ぼけたこと言ってんの」と一笑に付すことであろう(因みに、この大森の「ことだま論」についてだが、現在仏訳が進行中で、他の大森の論文と併せて、近い将来にフランスで出版される予定であり、その訳者は、このブログの管理人だということである)。
 ここで横道に逸れる(これ、「自分のことを棚に上げる」に次ぐ、私の第二の得意技。履歴書に書いてもいいくらい。― 旦那ぁ、こういっちゃぁなんでござんすが、まだ短い一段落書いただけでござんすよ。いっそのこと、「ソレル・ヨコミチ」ってな、国籍不明なペンネームでもお使いになったら、いかがでござんすか。― うむ、悪くないのぅ、考えておこう)。
 さて、その横道である。今さっき、「哲学者および哲学研究者」と併記したが、両者は、同義語ではないのはもちろんのこと、類義語でさえない。同種でもないし、「哲学」という同じ河の流れの中で、今西錦司が提唱したような平和的な「棲み分け」をしている、判明に区別されうる二つの種社会でもない。それどころか、天敵のごとく互いに反目しあうか、仲間たちだけで群れて(注:これは研究者たちのみに観察される現象である。注の注:日本の研究者の中には、世界中どこに出しても恥ずかしくない、まさに真摯できわめて優秀な方々も少なからずいらっしゃいます。その方たちを敵に回すつもりは、ゴザイマセン)、群れに加わらない個体(注:哲学者は、その定義上、あるいはその生態学的特性からして、群を構成しない)の無視を決め込むか、あるいは上から目線で互いに軽蔑し合うという、現代日本にとって大変不幸で、きわめて非生産的な関係にあることがほとんどである。これは日本に限ったことではないが、日本において特に著しい現象であるように私には思われる。
 そして、両者の社会的地位ということになると、それはもう月とスッポンほども違う。哲学研究者のほとんどは大学教師であり、つまり職業的研究者であり、一流有名(一流無名などそもそもあるか?三流有名というのはありか?)大学の哲学教授ともなれば、社会的信用度も高く(つまり、都市銀行の住宅ローンなどで優遇されやすい)、実際それなりにお金も持っているらしいが、哲学者となると、職業も定かではない。自分の名刺に、「経営コンサルタント」と肩書を打つ人や、「公認会計士」と国家資格所有者であることを堂々と示す人はいても、職業として「哲学者」と、名前の脇に、たとえ電子顕微鏡で見なければ見えないほど小さな活字でさえ、印刷させている人は、冗談でないかぎり、極少数に限られるであろう。しかも、どこでどのように暮らしているのかさえ世間ではあまりよく知られておらず、一般に金回りは芳しくないようである(セレブな哲学者なんて、想像できます?)。
 さらに一言付け加えると、自称他称を問わず、「セイヨウテツガク」研究者は、日本全国の大学に多数棲息していることが確認されているが、「セイヨウ」哲学者なる種に属する個体が日本の領土内で確認されたという学術的な調査報告は聞いたことがない。それでは、「ニホン」哲学者という種は、日本国内に存在し、学界(って、どの?)においてもそれとして認知されているのだろうか。「ニホンザル」が存在するという事実から類推して、その存在を仮説的に想定することは人類学的観点からは学術的にも許されるかもしれないが、この点、京都大学霊長類研究所に問い合わせてみる必要があるだろう。しかし、もっと深刻な問題は、そもそも「テツガクシャ」という生物種が日本に棲息しているかどうかにさえ懐疑的な生物人類学者も少なくないことである。
以上の哲学社会学(って、そんなん、あった?)的考察から、以下のような、暫定的ではあるが、日本の将来にとってきわめて悲観的な結論を引き出さざるを得ないことを遺憾に思う。
 一般に、論理的には、哲学者でありかつ哲学研究者であることは不可能ではないが、日本の現実社会においては、その社会構造からして、それは、ほぼ不可能である。しかも、前者にとって、日本の風土はきわめて厳しい生態環境であり、それにもかかわらず、そこで「テツガクシャ」として逞しく生き抜くためには、ゴキブリに匹敵する生命力を必要とするであろう。
 さて、本題に戻ろう(って、何が本題でしたっけ?)。私の見るところ、我が祖国「美しい日本」は、世界でも有数の、「現象学の幸はふ国」である。この極めて興味深い「社会現象」(と思っているのは私だけかもしれないし、日本における現象学の社会的影響力のナノテクノロジー的微小さからして、「不適切な表現」との誹りを免れ難いと予想されるが、それはともかく)と、山上憶良の歌に見られるような古代日本人の「言霊の幸はふ国」という自国認識との間には、いったいどんな関係があるのであろうか。一見なんの関係もなさそうである。実際、まったくないであろう(なんだよぉ、さんざん気を持たせやがって、木戸銭返せ!― お客様、お言葉ですが、拙ブログは入場無料でして、いかなる営利団体とも関係ゴザイマセン)。
 おお、何が本題か、思い出したぞよ(お願いしますよぅ、殿ぉ)。それは、昨日の冠詞問題とも密接に関係している問題なのだが、「単数・複数意識」(この表現は、井筒俊彦のある短いエッセイのタイトルから拝借した。明後日の記事でこの大変示唆的なエッセイの中身を紹介する)のことであった(「御意!」)。
 だが、今日はもう疲れているし(えっ!)、そろそろ来週の講義の準備も始めないといけないし(聞いてないし)、おお、それに思い出したくないことを思い出してしまった(何?)。「中古文学史」の試験答案の採点もしないといけないのだ(そんなこと)。いつまでも目を背けていたい恐ろしい現実であるが、そういう現実ほど、「前よりしも来らず。かねて後に迫れり」なんだよなぁ(知るか!)。だから、この続きは、明日にしよう(あのぅ、大殿ぉ、今日の記事って、いったい何だったんでしょうか?)。












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