ストラスブール大の現在のポストに赴任してからちょうど十年になる。その十年間ずっと同じアパルトマンに住んでいる。それ以前にパリで八年間やはり同じ住居に住んでいたが、居住期間としてはそれをもう二年も上回っていることにさっき気がついた。
生まれ育った世田谷区を除けば、ストラスブールが一番長く住んでいる街になった。哲学部博士課程の学生だった一九九六年から二〇〇〇年までも含めると、滞仏二十八年の半分をストラスブールで暮らしているということにもなる。
一処に一旦落ち着けば、住まいや地区に多少の不満があってもあまり動きたがらないほうで、その意味でフランス語の sédentaire に該当する性向だと思う。一所不住の nomade とは対極的だ。今の住まいにまったく不満がないとは言えないが、全体として満足度は高いし、膨大な本の量を考えると、引っ越しを想像する気にさえなれない。お金もかかるし。
では、この地にしっかり根をおろして暮らしているかというと、全然そう思えない。いつまで経っても déraciné(根無し草)だとつくづく思う。
Sédentaire で déraciné って、矛盾しているように思われる。前者を定住の意にとれば、この二つの漢字が示しているように、定まった住まいがある、あるいは、一定の場所に長く生活する、ということであり、安定感がある(もっともこの語の否定的な意味は「出不精」「家にこもっている」だが)。他方、根無し草はいつも浮動していて落ち着かないイメージがある。住まいがどこかなのかも定かでない感じがする。
ノマドになれない定住性根無し草というこの相反する性質が私においていかに矛盾的自己同一性を形成しているのか。この問いに一つのイメージで答えるとすれば、川の流れのいずこかにできた淀みに漂っている浮き草である。川の流れに身を任せるのでもなく、流れに逆らって己の意志で川上を目指すのでもない。ただただ頼りなげに揺れながら同じ場所に浮いているだけである。しかも、遅かれ早かれ泡沫のごとくに消えていくことを一方で恐れ慄きながら、どこかでそれを待ち望んでもいる。どこまでも矛盾である。