「地獄」という言葉を聞いて私がすぐに思い浮かべる日本の古典は『往生要集』と『歎異抄』である。前者の「厭離穢土」に見られる凄絶な地獄の描写は一度読んだら忘れられるものではなく、後者に録された親鸞の言葉「地獄は一定すみかぞかし」は、いわゆる「悪人正機」説よりも私の脳髄には強く響いた。
念仏は、まことに、浄土にむまるるたねにてやはんべらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。惣じてもつて存知せざるなり。たとひ、法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらう。そのゆへは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をまふして地獄にもおちてさふらはばこそ、すかされたてまつりとていふ後悔もさふらはめ、いづれの行もおよびがたき身なれば、とても、地獄は一定すみかぞかし。
そして同じ第二条のむすびの言葉にも、最初に読んだときからその立場の徹底性ゆえに驚嘆した。
詮ずるところ、愚身の信心におきては、かくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと云々。