内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日本語で哲学する(一)― 日本語で生きられている現象学的態度

2015-02-27 09:59:59 | 哲学

 フランス語には限らないが、欧米の言語で書くときに日本人を悩ます問題の一つに、冠詞の問題がある。相当の上級者でも冠詞の付け方には迷うことしばしばであり、逆にこの「関門」を透過できている人は、なかなかの使い手であるとみなして差し支えない。だから人の書いた仏文をチェックする時はまずそこを見る。それだけでその書き手の実力についておよその見当をつけることができるからだ。
 一般的に、日本人は定冠詞を使い過ぎる、というか、不定冠詞でなければならないところに定冠詞を置いてしまいがちである。この傾向は、文法的知識が十分ではないという単に語学的な問題に還元することはできない。ちょっと大袈裟に言えば、これは、定冠詞の有っている強い対象限定力を、仮に文法的知識としては持っていても、直観的現実認識の態度としては体得できていないということを意味しているからである。
 例解として、一つのエピソードをお話ししよう。
 もう十数年前のことだが、ともに博士論文を準備していた日本人の友人から後日談として聞いた話である。友人のその論文の中には、自分の指導教授の説に批判的に言及している箇所があった。そこで、その友人は、「◯◯教授は、Xの哲学を誤解している」と言いたかった。もちろん、教授の説を全面的に否定したかったのではなく、ある点において十分には理解していないところがあるという限定的な異議申立てがしたかっただけなのである。ところが、そこで、迂闊にも、その友人は、定冠詞を使ってしまい、 « la philosophie de X » としてしまったのだ。それを草稿段階で見た指導教授は、その定冠詞を指さしながら、ゆっくりと、穏やかな声で、「まさか君はここで私が「Xの哲学をすっかり誤解している」と言いたいのではないですよね」と友人に問いかけ、定冠詞の使い方に十分注意するようにと助言してくれたそうである。つまり、そこでの定冠詞は、Xの哲学全体を一つの特定可能な対象として限定してしまっていたのである(「やっちまいましたね、姐さん(べつに兄貴でもよい)」、というところである)。
 これは、定冠詞の使用例としてはごく易しい方で、ちょっと注意すれば、回避できるミスなのだが、それだけに、うっかりすると、大変失礼な物言いになってしまう、あるいは、それこそ大変な誤解の種になってしまいかねないから、やはり蔑ろにはできない問題なのだ。
 定冠詞と不定冠詞の間の選択という問題は、それでも、限定か非限定かという一点に絞って理詰めに攻めていくだけでもかなり問題を克服できる。それに対して、不定冠詞と無冠詞と間の選択という問題には、もっと微妙なケースが多々あり、私もよく迷う。しかも、迷った挙句にフランス人に聞いても、意見が分かれたりするから(はっきりせんかい!)、これはまあ、フランス語学研究者でもなければ、そう深刻に悩まなくてもいいのかもしれない(それに、いちいち悩んでいたら、論文が書けなくなるし)。
 私がこんな語学四方山話をくだくだしながら、実は提起したい(だったら、はよせんかい!)より重要な問題は、冠詞に表現されている世界了解の態度である(またまた大きく出ましたねぇ)。
 これは、冠詞を不可欠とする言語の方が思考においてより厳密であるなどというアホな話をするためではなく、冠詞認識(こんな術語はないが、仮にそう名づけておく)がある言語による世界了解の仕方と冠詞のない日本語による世界了解の仕方とは、おのずと異なっているということを、哲学の問題として考えるための問題提起である。
 「なーんだ、そんなことか。だいたい英語を習い始めればすぐに出くわす問題じゃないか。学校文法でも嫌というほどやらされたよ。それに、言語学的にも、すでに散々論じられてきたことだよ。今さら哲学が何さ」と、すっかり白けてしまった御仁もいらっしゃるかと推察するが、まあ、それはそれで仕方ござらん。どうもここまでお読み下さり、貴重なお時間を無駄にさせて、誠に申し訳ございませんでした。
 「っていうか、あのさぁ」と、別のもう少し辛抱強い御仁は発言を求めるであろう、「ぜんぜん今日の記事のタイトルの話になってないじゃん。せっかくタイトル見て、少し期待していたのになぁ」― ああ、それはもうその通りでございます。お詫びの言葉もございません。今日の記事を書き始めた時は、もっと真剣(ってことは、今は真剣じゃあないわけ?)だったのですが、だんだん話が横道に逸れて、お恥ずかしい話ですが、とうとう帰り途がわからなくなってしまったというわけでして。
 ただ一言、負け惜しみを言っておく。この冠詞の問題を、単に語学的なレベルでしか考えられない人は、哲学には向いていません(なんだよぉ、いきなりぃ)。もうちょっとキツい言い方をすると(やめといたほうがいいと思うけど)、冠詞が不可欠な言語で哲学の論文(に本当は限らないけど)を書いていて、冠詞の問題に悩むセンス(っていうのがあるんですよ、ホントウに。悩まない人って、幸せだけど、やっぱり不幸なんですよ、だから。って、また負け惜しみか!)のない人は、哲学の勉強を即刻お止めになったほうがいいと思います(あーあ、言っちゃったぁ)。
 というわけ(どんなわけ?)で、明日からは、少し真面目に、今日の記事のタイトルに少しでも相応しい記事を書いていきたいと愚考つかまつっております。
 これから、いつものプールに寒中雨中水泳に行ってまいりまするぅ。













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