サン=テグジュペリの『人間の大地』のなかで「宇宙的尺度」(l’échelle cosmique)という表現が使われている段落を読んでみよう。
Nous voilà donc changés en physiciens, en biologistes, examinant ces civilisations qui ornent des fonds de vallées, et, parfois, par miracle, s’épanouissent comme des parcs là où le climat les favorise. Nous voilà donc jugeant l’homme à l’échelle cosmique, l’observant à travers nos hublots, comme à travers des instruments d’étude. Nous voilà relisant notre histoire.
僕らは物理学者や生物学者に変身し、大河流域の低地を彩る文明を、気候に恵まれたところではときに奇跡的に庭園のように花開く文明を、調査する。僕らはそうして人間を宇宙的尺度で評価し、飛行機の窓から、あたかも実験器具を通じてのように観察する。僕らは僕らの歴史をそうして読み直す。(光文社古典新訳文庫版渋谷豊訳を改変)
地上からすべてを観察するほかなかった時代は、たとえ尖塔や山の上から観察するにしても、観察されるものと観察するものとは地続きであった。逆に、空は見上げることしかできなかったし、満天の星も地上から観察するしかなかった。
飛行機の登場とともに、空から地上を観察できるようになった。地上にあるすべてのものから自分を切り離して、それらを空の高みから見下ろすという視点を獲得した。その延長線上に宇宙から見た地球という観点もすでに予想していたからこそ、サン=テグジュペリは「宇宙的」という言葉を使ったのではないだろうか。
人間が世界を観察する新たな尺度を手に入れたことを示す「宇宙的」という言葉は、だから、「地上」(terrestre)と「天上」(céleste)という対比的な構図とも違う世界観を示している。
他方、その世界観はメルロ=ポンティが「生成しつつあるベルクソン」のなかで述べている「奇妙な絶対知」(étrange savoir absolu)と背反するものではない。
Le temps est donc moi, je suis la durée que je saisis, c’est en moi la durée qui se saisit elle-même. Et dès maintenant nous sommes à l’absolu. Étrange savoir absolu, puisque nous ne connaissons ni tous nos souvenirs, ni même toute l’épaisseur de notre présent, et que mon contact avec moi-même est « coïncidence partielle » […]. En tout cas, quand il s’agit de moi, c’est parce que le contact est partiel qu’il est absolu, c’est parce que je suis pris dans ma durée que je la sais comme personne, c’est parce qu’elle me déborde que j’en ai une expérience que l’on ne saurait concevoir plus étroite ni plus proche. Le savoir absolu n’est pas survol, il est inhérence. C’est une grande nouveauté en 1889, et qui a de l’avenir, de donner pour principe à la philosophie, non un je pense et ses pensées immanentes, mais un Être-soi dont la cohésion est aussi arrachement.
だから時間は私であり、私は私がとらえる持続であり、私の内においてこそ持続がおのれ自身をとらえる。そして現時点からすでに私たちは絶対的なもののもとにいる。これは奇妙な絶対知だ。というのも私たちは私たちの記憶の全体も、私たちの現在の厚み全体も認識せず、私の私自身との接触は「部分的合致」[…]である。いずれにせよ、私が問題になる場合、接触は部分的だからこそ絶対的なものであり、私が私の持続にとらわれているからこそ、私はそれを誰のものでもないものとしてとらえるのであり、それが私を逸脱するからこそ、私はその経験をもつのだ。この経験はより密接だとも、より近いとも考えられないような経験だろう。絶対知とは上空飛行ではなく、内属のことだ。哲学に対して、「我思う」やその内在的な思考ではなく、凝集することが離脱することでもあるような〈自己であること〉という原理を与えたのは、一八八九年の時点においてはたいへん斬新なことであり、また未来にもつながる考え方だったのである。(『シーニュ』廣瀬浩司訳、ちくま学芸文庫、二〇二〇年)