内的自己対話-川の畔のささめごと

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主体概念を問い直す手がかりとなる近現代のテキスト(10)― 場面に融和しようとする言語主体、時枝誠記『国語学原論』「言語の社会性」より

2022-08-02 22:14:54 | 哲学

 今回の集中講義で主体概念再考のために取り上げる最後のテキストは、時枝誠記の『国語学原論』第一篇総論十「言語の社会性」である。時枝の言語過程説の要となる言語主体についての重要な規定が見られる章である。
 時枝は、言語の第一次的な目的は言語主体が内なるものを外に表現することにあると考える。と同時に、表現は聴手に理解されてはじめて了解が成り立つことも認める。言語主体は「表現意識を犠牲にしても了解の目的を達成しようとする」強い傾向がある。「了解を考慮するということは、場面について考慮し、主体が場面に融和しようとする態度である。」(『国語学原論(上)』岩波文庫、2007年、160頁)
 この場面に融和しようとする態度とは、その場面での社会的制約・拘束を受け入れることを必然的に含む。しかし、それは内から外へと表現を表出する主体の欲求が外的諸条件によって制約・拘束されることを意味しないと時枝は考える。この外的に見える制約・拘束は、実のところ、場面への融和・了解成立のために主体が自ら受け入れているのだと考えるのである。
 「言語に於いては、屢々素材の的確な表現と捨てても場面に合致した表現をとろうとする」(161頁)。例えば、大人が子どもに対して厳密な表現を捨てて子どもにとってわかりやすい表現をする場合である。言語主体は内から外への表現を第一次的な目的としつつ、「言語の不可欠は存在条件である場面」に対して顧慮する。それは外から強いられてそうするのではなく、了解という場面においてまさに言語表現を実現するために自らそうするのである。
 表現を限定する諸条件に従うことを自ら受け入れることによって言語表現を支えるもの、それが言語主体である。この言語主体において、主体(sujet)の語源である古代ギリシア語のヒュポケイメノン(ὑποκείμενον)の二重の意味 ―〈下に置かれたもの〉〈下から支えるもの〉― が統合されている。

 演習では、毎回授業後、学生たちに感想レポートを書いて送ってもらっている。これは今年で12回目になる集中講義で毎年行っていることだ。今年参加してくれている三名の女子学生は実にセンスがいい。二コマ(三時間)の授業はかなり盛りだくさんな内容なのだが、それぞれが異なった論点を私の話の中から引き出してくれている。その翌日の授業はそれら感想レポートに対して私がコメントを返すことから始まる。感想レポートが面白ければ面白いほど、私の応答も長くなる。メインテキストの読解はそれだけ遅くなる。しかし、哲学の演習(エクゼルシス)としてはそれだけ充実したものとなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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