内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

新しい社会存在の哲学の構想のために(その10)

2013-10-24 01:04:09 | 哲学

 今日(水曜日)は、午前中の一年生の演習は二コマとも中間テストだったので、試験監督をするだけでよく、その分楽ではあった。しかし、昨晩、今日の午後のイナルコの講義の準備が零時過ぎまでかかったので、睡眠不足でつらかった。修士の授業が終わってすぐにパリに戻るために電車に乗ったが、たまたまドイツ人の同僚と一緒になり、車中話しながらの帰路だったので、いつものように仮眠も取れず、それがまたしんどかった。この季節にしては珍しい小春日和が車中眠気を誘ったということもある。
 今日のイナルコの講義のテーマは九鬼周造。出席者は16名。簡単に伝記的な紹介をした後、『「いき」の構造』(1930)、『偶然性の問題』(1935)「文学の形而上学」(1940)の三つの著作からそれぞれ三つの基本概念 ・テーゼを取り出し、これら三つの著作が、1928年にポンティニで九鬼がフランス語で行った二つの講演のテーマである時間論から最晩年の音韻論の中に読み取ることができる時間論へと深化を遂げていく九鬼の哲学の、美学・倫理学的段階、実存的段階、そして形而上学的段階をそれぞれ示しており、それらを貫く方法論的態度として、あくまで現実の具体的経験から出発しようとする現象学的態度が見られるというふうに全体図を示し、その途中で沢瀉久敬による『偶然性の問題』仏訳を引用し、「偶然と運命」というエッセイの一部を日本語原文でゆっくり読む時間を設けて、緩急をつけながら2時間休みなく話した。結論としては、詩的言語において交差し、同時的に経験される現象学的時間と形而上学的時間という二重の時間性の問題に九鬼の哲学の一つの集約点を見ることができるというまとめかたであった。学生たちの関心は、「いき」がどのような具体的経験を指すのかという問題と、邂逅の偶然性の問題とに対して特に高かったように思う。
 さて、「新しい社会存在の哲学の構想のために」の連載の今日の分は、今のところ書けている最後の部分に相当する。

3 集団的習慣としての〈種〉
 ここにおいて、私たちは、集団的習慣として〈種〉を構想する可能性を垣間見る。この可能性は、西田自身によってはほとんど展開されることはなかったが、この集団的習慣は、自然の最深部と反省的自由の最高点との間に、自由から自然への回帰を表象する習慣の歴史の中で形成された。ここで問題になるのは、意志の領域に自然の全体的統一の中でどのような位置づけが与えられるかということである。この自然は、その裡に三つの存在様態 ― 「有りたい」「有らねばならぬ「有りうる」― を含み、それらの様態は、「非連続の連続」において、互いに他へと変容されるが、それはまさに「素質・位置取り」としての習慣による。
 このように見るとき、〈種〉は、自然的なものとしても抽象的なものとしても構想されえず、習慣的なものとして構想される。それは、私たちの意志からまったく独立に一つの存在として限定されるものではなく、思弁によってまったく随意に発明されるものでもない。そうではなくて、ある一定の生活形式を共有する個人からなるグループによって身につけられた習慣として規定される。この生活形式は、そらら諸個人によって集団的歴史として形成され、維持され、発展させられる。習慣の歴史は、私たちがそれに属していると考えられる種の形成過程を内側から理解するように導く。そして、作られるものから作るものへと ― つまり、非人称的な自然的自発性から個人において自覚される個別的な自発性が開花する意識へと ― 発展する歴史の流れのなかにその種を位置づけるように導く。このようにして、私たちは、全体として整合的な仕方で、一方では、歴史的生命の論理に従いながら、各個人にある一定の生命活動の形式を課す既存の諸々の種の可塑性を、他方では、自覚した個々人が自分たち自身に課された形式を打ち破り、習慣の力によって新しい規範形式を自らに与えつつ、世界に新しい創造的な形を与える創造性を考えることができるようになる。












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