内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

新しい社会存在の哲学の構想のために(その9)

2013-10-23 00:06:00 | 哲学

 昨日は言及しなかったが、プールには行った。今日も行った。午後2時半から3時半まで。小中高公立学校がヴァカンスの間、パリ市営プールは毎日営業する。プールにもよるが月曜日はだいたい午後1時から6時まで。火曜日から金曜日までは午前7時から午後6時まで連続で営業する。土日は通常通りの営業時間。この期間、朝は行かない。なぜか。普段より若干利用者は減るが、朝はとにかく常連が主なので、利用者数に変動が少ない。ところが、午後2時以降は昼休みに泳ぎに来ていた勤め人たちも引き上げるので、非常にすいているのだ。時には一コースを独占できることさえある。だからこの時間帯を狙っていく。昨日も今日も快適に泳げた。
 ヴァカンス中であるから、子どもたちは多い。しかし、彼らはコースロープが張ってある遊泳コースにはほどんど入ってこない。うっかりふざけて入り込むとすぐに監視員注意される。だから、殆どの場合、コースロープの張っていないプールの残り半分で、友達同士ではしゃいでいる。親は働いている時間であるから、小学校高学年から中学生が多い。時に高校生らしいのもいる。彼らには二つの際立った特徴がある。黒人を主体とした有色人種が多いことと、はっきりとした肥満・肥満傾向・過体重の子たちが男女を問わず多いこととである。これは何を意味するか。中流以上の家庭の子たちのほとんどは、ヴァカンス中はどこかに出かけ、パリにはいない。つまりヴァカンス中だろうが働きづめで、かつ子どもたちをヴァカンスに送り出す経済的余裕もない低所得者層の子どもたちが多いということが一つ。もう一つは、そういう子どもたちの家庭では親自身が肥満であることがきわめて多く、栄養バランスについての知識も意識も欠けており、したがって、子どもたちの食生活にも著しい偏りが見られ、それが肥満傾向として顕著に現れているということなのだ。彼らが生活習慣病予備軍であることは言うまでもない。
 さて、今日はまた「新しい社会存在の哲学の構想のために」連載に戻る。

2.7 相補的な二つの方法論―下降的方法と上昇的方法
 ラヴェッソンの方法はいわば「下降的」である。それは、習慣が、自然の最も高い地点から、つまりまさに意識たるものから、自然の最も奥深いところへ、すなわち「習慣の逓減運動の限界」へと連続的に下降していくことを、しかも意識の光を失うことなしにそれを可能にする途であるという意味においてでである。

同一の力が、一方では人格性に於ける高次の統一を少しも失わずにいながら、自分を分割ぜずして多様化し、下落させずして低めつつ、自ら多方面に分かれて、諸々の傾向、動作、観念となり、時間に於て変形し空間に於て分散するのである(『習慣論』48頁)。

 習慣というこの上なく類推的な方法によって、世界全体の統一性が回復させられる。普遍的な方法として認められた習慣によって、自然の深奥にその起源が見出され、意識にその到達点がある「螺旋」を再下降する。「習慣は、この螺旋をば再び降り行き、それの発生と起源とを我等に教える」(同書73頁)。習慣の発展は、「意識をば、間断なき低下を通じて、意志から本能へ、人格の完成せる統一から非人格性の極度の分散へと、導いて行く。習慣は、自然の過程をいわば逆さに辿ることによって、「自然の最後の根底と反省的自由の最高の点との間には、同一の力の発展の度を示す無限の段階がある」(同頁)ことを私たちに理解させる。

最後に、人類に於ける生命の最高の形式なる運動的活動が、従属的諸機能の中に展開される低次の形式のすべてを、縮図の形で包含している、というばかりではない。これら機能の系列それ自身も、世界に於ける生命の一般的発展 ― 界から界へ、類から類へ、種から種へ、最後は存在の最も不完全な萌芽や最も単純な要素に至る発展 ― の要約にほかならないのである(同書53頁)。

 このようなラヴェッソンの下降的方法に対して、西田の方法は「上昇的」と形容することができる。それは、行為的直観とともに、西田が歴史的生命の世界の中の意識の根源に身を置き、世界の自己形成過程としての行為的直観の発展過程を、すなわち私たちの身体的自己において経験される世界の自覚に至るまで上昇していく過程を辿りなおすことをその目的としているからである。行為的直観を意識の根源に措定することによって、西田は、自己形成的世界であるところの歴史的生命の世界における意識の発展過程の可能性の諸条件を探求する。どこで、どのようにして、意識をこの世界においてそれとして把握することができるのか。この問いに西田は次のように答える。

我々の意識は、単なる空間の世界、物質の世界に残るのではなく、歴史的形成的世界の記憶の内に素質として残るのである(新全集第10巻293頁)。

 習慣は、自己意識として自らに現れることによって、以下のことを私たちに理解させる。ただ一つの同じ自己形成能力が私たちには備わっており、その能力は、物質的世界のメカニズムに還元されえないのと同じように、身体性を欠落させた精神の純粋活動なるものにも還元されえず、個別的な創造性にまで発展する「素質・位置取り(disposition)」を構成する。この創造性は、環境の構成原理として機能しうる一つの特定な形を自らに与えることによって世界に新しい形を与えることができるという意味での創造性である。これが自覚の深化の過程の現実的な過程であり、この過程は、私たちを初めて世界に向かって開く行為的直観から、世界の自覚にまで展開する。この世界の自覚は、自己表現的世界の自己表現点として、創造的世界の創造点として、私たちの身体的自己においてそれとして経験される。
 以上見てきたラヴェッソンと西田それぞれの方法は、互いに排除し合うものではなく、それどころか、まさに相補的である。西田の歴史的生命の論理は、ラヴェッソンの習慣の一般理論に存在論的基礎づけを提供する一方、ラヴェッソンの習慣論は、環境から働きかけられ且つ環境に働きかける自己形成的な私たちの身体によって担われた直接的な内的覚知によって、生命の形成の論理を内側から経験することを可能にする途を私たちに開くからである。



























 

 


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