内的自己対話-川の畔のささめごと

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純粋倫理か応用倫理かの不毛な二者択一から「一なる完全な倫理」へ ― ジルベール・シモンドンを読む(137)

2016-10-26 17:13:01 | 哲学

 昨日読み終えた段落の次の段落の冒頭に、以下のような問いが立てられている。

Une théorie de l’individuation peut-elle, par l’intermédiaire de la notion d'information, fournir une ethnique ? (p. 330)

一つの個体化理論が、information 概念を媒介として、一つの倫理を提供することができるだろうか。

 この問いに対するシモンドンの答えは以下の通り。

Elle peut au moins servir à jeter les bases d’une éthique, même si elle ne peut l’achever parce qu’elle ne peut la circonstancier (ibid.).

一つの個体化理論は、少なくとも一つの倫理の基礎を与えることには役立ちうる、たとえ、倫理を具体的に状況づけることはできないゆえに、それを完成させることはできないとしても。

 この答えの後で、シモンドンは倫理に関する二元論的思考を批判する。この点については、10月1日の記事で、アンヌ・ファゴ=ラルジョ論文内に言及されたシモンドンのテキストの同箇所に言及したときにすでに若干触れている。
 その二元論的思考によれば、倫理は、純粋倫理と応用倫理に二分され、両者は互いに乖離し、相容れない。この倫理の二分化は、実体と生成とが分離されていることに起因するとシモンドンは考える。前者が純粋倫理に、後者が応用倫理に対応する。前者が対象とするのは、完全に個体化された存在、つまり、もはやそれ以外ではありえない実体化された不変の存在である。後者が対象とするのは、つねに揺れ動く感情や外から来る誘惑に左右される可変的現実存在である。しかし、どちらの倫理も他方を完全否定することによって成り立っており、その意味では相互依存的である。
 しかし、倫理をこのように純粋倫理と応用倫理とに完全に分断した上で両者を批判するのは、まったく形式的であるばかりでなく、それ自体が論理的に破綻していると私には思われる。なぜなら、純粋倫理が対象とするはずの完成された不変の実体的存在には、倫理的問題など一切ありえないからである。いかなる現実存在にも適用不可能な純粋倫理など、そもそも倫理ではない。
 実際、次の段落を読めばわかるように、シモンドンが目指しているのは、存在か生成かの二者択一的思考を脱して、「存在を生成において捉える」(« saisir l’être dans son devenir »)個体化理論に基礎づけられた「一なる完全な倫理」(« éthique une et complète »)なのである。

La notion de communication comme identique à la résonance interne d’un système en voie d’individuation peut, au contraire, s’efforce de saisir l’être dans son devenir sans accorder un privilège à l’essence immobile de l’être ou au devenir en tant que devenir ; il ne peut y avoir d’éthique une et complète que dans la mesure où le devenir de l’être est saisi comme de l’être même, c’est-à-dire dans la mesure où le devenir est connu comme devenir de l’être (p. 330-331).

 ここから結論の最後までの約四頁がシモンドンの個体化理論に基づいた倫理学基礎論になっており、私自身の現在の関心もそこに集中しているので、明日の記事からは、その論述を原文に即しつつ丁寧に追っていきたい。












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