内的自己対話-川の畔のささめごと

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哲学的思考の型としての日記(五)― 近代哲学の心身二元論的構図に対する反措定としての「精神の気象学

2020-02-26 00:00:00 | 哲学

 天候を神意の現れそのもの或いはそこから神意を読み取るべき表徴と捉えるのが古代からルネッサンス以前まで支配的だった世界了解の仕方であったとすれば、気象をそれ自身に固有な法則を有した自然現象として理解する態度を人間が身につけたときが近代のはじまりだと規定することもできるだろう。より具体的に、雨乞いの儀式に典型的に見られるような自然への呪術的な働きかけが自然法則の認識とそれに基づいた理性的な対処に取って代わられるときが近代のはじまりだと言ってもよい。
 しかし、それだけのことなら気象現象にかぎらない。神話的世界における呪術を媒介とした自然との交信から幾何学的・機械的世界における技術を媒介とした自然への関与への移行は、自然を対象としたあらゆる分野でルネッサンス以降に起こっていくことであり、それについて今更喋々するにはおよばないだろう。
 ところが、気象と人間との関係には自然科学の発達による知の「近代化」という枠組みの中に単純に押し込めることを許さない要素が含まれている。気象と人間との関係を他の諸関係から区別する特異性として次の三点を挙げることができると私は考える。(一)気象と心理とは恒常的可変性をその共通の本性としていること、(二)気象の変化は体調及び心理に直接的に作用を及ぼしうること、(三)両者の間には相互浸透性があること。
 気象と人間との間の関係に見られるこの三つの特異性が近代気象学の発達にともなってより明確に科学的に認識されていく。この科学的認識の発展・深化が「精神の気象学」と名づけうる広義の文学的表現を十九世紀フランスに開花させる。
 日々の記録としての日記という形式がとりわけ気象の観察記述に好適なのは言うまでもない。多くの私的書簡の書き出しに見られる天候の記述も単なる時候の挨拶として軽視していいとはかぎらない。いずれの場合も気象に関する記述が書き手の自己表現の一部をなしている。それどころか、気象に対する反応あるいは気象によって引き起こされた心理状態がその自己存在の一部をなしていることを表現している日記や書簡も少なくない。
 この「精神の気象学」的記述は人間存在がそもそも心身二元論的構図には収まらないことをよく示している。いささか逆説的かつ挑発的な言辞を弄することを許されるならば、自然科学としての近代気象学によってその記述モデルが与えられた「精神の気象学」はその成り立ちからして近代哲学の心身二元論的構図に対する反措定だったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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