内的自己対話-川の畔のささめごと

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哲学的思考の型としての日記(四)― 感情と気象の類比から内部世界の気象学へ

2020-02-25 00:00:00 | 哲学

 自己の内的観察を日記として記録していくとき、日々の天気は内的自己とは別次元に属する自然現象として内省録にとってさして重要性を持たない場合もある。そのような内省録には当然のことながら気象についての記述は乏しい。一方、内的自己についての省察でありながらその中で気象に関わる記述が重要な意味をもっている場合もある。その重要性は一様ではない。天候が書き手の心理に影響を及ぼしている場合、その日の天気の記述が書き手の心理状態を反映している場合、さらにはそれがそのままその表現になっている場合もある。これは日本古典文学では、特に女流日記文学では、少しも珍しいことではない。
 ある一定の気候風土の中で暮らすほかない人間にとってその気候風土の特性と日々の気象の変化とが精神生活にも影響を及ぼすのはむしろ当然のことである。いつの時代であっても世界のどこであっても日々の自己の観察記録に気象に関する記録が含まれるのもその意味では特に驚くにはあたらない。
 しかし、近代ヨーロッパにおいて個人の内的経験と気象との関係に大きな変化が起こる。近代科学として確立されていく気象学の進歩が自己に対する観察態度に決定的な変化をもたらすようになる。より端的に言えば、気象学が自己観察的態度に一つのモデルを提供するようになるのである。
 アリストテレスによって一学問分野として確立された気象学(メテオーロロギア)は、ほぼ二千年間その基本的な枠組に変化がなかった。一言で言えば、複雑な気象現象をより一般的な物理法則によって説明しようとする態度である。ところが、十八世紀以降、気象学は計測機器の発明・改良とともに著しい進歩を遂げ、十九世紀には近代科学の一分野として認知されるようになる。つまり、気象現象そのものが他のものに還元不可能な学的研究対象になったのである。
 ルソーの時代はまだ近代気象学の揺籃期であったが、未完の絶筆『孤独な散歩者の夢想』には、絶えず変化する自己の精神状態を天候の変化のように客観的に観察しようとする「科学的」態度がすでに見て取れる。それは以下のような態度である。
 変化してやまない気象現象にも一定の法則があるように、絶えず変化する人間の感情にも一定の法則がある。気象諸現象の法則を見出すためにはまずそれらを直によく観察しなければならないように、感情の法則を発見するためにもまた諸感情の動きをそれらの発生の現場において注意深く観察しなくてはならない。気象の観察を精密化するためには温度計や気圧計その他の計測機器を必要とするように、心的現象の観察の精密化にも対象に相応しい概念装置が必要である。
 近代自然科学の一分野としての気象学の方法論が心の世界の気象学に一つのモデルを提供したのである。両者の関係は単なる類比的関係(アナロジー)にとどまるものではなく、二つの異なった学問領域の間に一定の対応関係が認められるということに尽きるのでもない。気象学と自己省察とは、人間の自己身体という「現場」において互いに相手の領域に浸透し合っているという新しい思想が十八世紀末から十九世紀前半にかけてフランスで誕生し独特の深化を遂げる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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