内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(一)

2014-05-27 00:00:00 | 哲学

 昨日までで、第四章の連載をようやくひとまず終えることができた。同章の連載に四十二回もかかってしまった理由は、一つには、基になっている仏語の博士論文から訳しながらの投稿であったからだが、もう一つには、やはり十年も前に書いた原稿だけに、そのままでは使えないと判断せざるを得ない部分も少なからずあり、そのような個所を書き直しながら、あるいは、それだけでは済まず、新たに書き加えながらの掲載だったからである。
 今日から取り掛かる第五章には、さらに厄介な問題がある。博論を提出した直後から、この第五章の出来には自分でも不満があり、その不満が日本語での出版にすぐには踏み切れなかった大きな理由の一つでもあった。だから、今回の連載も、元の仏語原稿に相当な改変と補充を加えながらということにならざるをえない。一回ごとの記事の長さも、したがって、短めになるだろう。一応六月末までにはなんとか終えたいと思っている。しかし、七月にはストラスブールへの引っ越しを控えており、その準備もあれこれとあるから、もっと時間がかかるかもしれない。それはとにかく、これら一連の記事を、日々の哲学演習として、毎日休まずに投稿することだけは、何としても順守していく。

 まず、基になる仏語博士論文第五章の目次をそのまま掲げる。

Chapitre V La vie auto-formante et la vie s’auto-éprouvant
— entrecroisement et opposition entre Nishida et Michel Henry dans la Vie autogène —

1– L’évolution de la pensée de la vie chez Nishida
1. 1 Transition de la phase de l’expérience pure à celle de la logique du basho
1. 2 L’inspiration de la vision organiciste holistique
1. 3 La vie en tant qu’événement
1. 4 La logique de la vie historique

2 – Le problème critique de l’espèce dans la dernière philosophie de Nishida
2. 1 L’intégration de la notion d’espèce dans la logique de la vie historique : un échec ?
2. 2 L’habitude et le monde de la vie historique

3 – De la vie s’auto-éprouvant à la vie auto-formante
3. 1 La phénoménologie de la vie, recherche de la phénoménalité pure
3. 2 L’apparaître du monde, mis au-dehors de la vie
3. 3 La vie auto-révélatrice, fermée à l’autre
3. 4 Le souffrir primitif, étranger aux souffrances
3. 5 Le corps, déchiré en deux
3. 6 L’étendue échappée entre l’éveil à soi et l’intuition-action

 見て通り、第五章は三つの節からなる。第一節では、西田の生命論を、『善の研究』出版前後の初期から生前に出版された最後の論文「生命」に示されたその最終的な立場まで、時系列に沿って概観している。この概観は、野家啓一論文「歴史的生命の論理 — 西田幾多郎の生命論」(『講座[生命]96生命の思索』、哲学書房、一九九六年、 九-三六頁)に主に依拠しており、多数の西田のテキストの引用を含んでいる。このような紹介的概観とそこに含まれる多数の西田の著作からの引用すべての仏訳作業は、西田哲学の全体がまだよく知られていなかった当時のフランスの現状からして、不可欠な手続きであった。しかし、日本語で書かれ、日本の読者を前提としている本稿にとっては、この節にそれをそのまま日本語に訳して掲載するだけの価値はないと私たちは考える。そこで、引用を大幅に削減し、本文も、第二節以降に展開される議論の理解に必要な部分に限って再録することとした。
 第二節では、最後期西田哲学の生命論が孕んでいる最も重大な欠陥を指摘し、その欠陥の克服の可能性を西田最晩年の論文「生命」の中に探る。
第三節は、西田とミッシェル・アンリにおける〈生命〉論の比較検討を通じて、両者の哲学が交叉する問題領域と決定的に背反する論点とを明らかにし、その上で、両者いずれによっても問題化されることがなく、いわば冥闇のうちに残されたままの領域に私たち自身の観点から光を当てる。
 第一節に上記のような意図に従って改変を加えた本稿第五章の目次は、以下のようになる。

第五章
自己形成的生命と自己触発的生命
― 自己生成的〈生命〉論における西田とミッシェル・アンリの交差と対立 ―

1-西田哲学の生命論
1. 1 全体論的有機体論からの影響
1. 2 出来事としての生命
1. 3 歴史的生命の論理

2-最後期西田哲学における〈種〉の問題
2. 1 歴史的生命の論理の中へ〈種〉概念を導入することに伴う困難
2. 2 習慣と歴史的生命の世界

3-自己触発的生命から自己形成的生命へ
3. 1 生命の現象学 ― 純粋な現象性の探究
3. 2 世界の現われ ― 生命の外化
3. 3 自己開示的生命 ― 他者への回路の欠落
3. 4 原初的な受苦 ― 諸々の苦しみの届かぬ底にあるもの
3. 5 二つの次元に引き裂かれた身体
3. 6 自覚からも行為的直観からも逃れる広がり

 明日以降、この構成に従って、毎日少しずつ、十年前にフランス語で自分が書いた文章を読み直し、まずは自分がそこに表現しようとした考えを思い起こし、そしてそれに再検討を加え、それらの作業を通じて、日本語で、今、もう一度同じ問題を考え直していきたい。












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