内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(四十二)

2014-05-26 00:00:00 | 哲学

2. 5 〈肉〉のロゴスと語る身体(4)

 昨日の記事の終わりに引用した一節を再度掲げる。

見えるものを、人間を通じて実現される何ものかとして記述しなくてはならない。しかし、その何ものかは少しも人間学的なものではない[…]。〈自然〉は、人間の裏側として記述しなくてはならない(〈肉〉として ― 「物質」としてではまったくなく)。ロゴスもまた、人間の中で実現するものとして、しかし、その「所有物」としてではまったくなく。
« Il faut décrire le visible comme quelque chose qui se réalise à travers l’homme, mais qui n’est nullement anthropologie […] la Nature comme l’autre côté de l’homme (comme chair — nullement comme « matière », le Logos aussi comme se réalisant dans l’homme, mais nullement comme sa propriété » (VI, p. 328).

 このロゴスは、私たちの言葉を通じて、私たちにおいて、己自身に対して現れる。しかし、このロゴスは、私たちの言語の構造にも、私たちの言語行為を成り立たせている意味のシステムにも、私たちの知的能力にも一致しない。メルロ=ポンティがここで言うロゴスとは、〈肉〉のロゴスであり、このロゴスは、私たちの中で目覚め、私たちの語る身体を通じてそれを表現するよう私たちを促し続ける。〈肉〉は、私たちの身体的自己において己を表現する。それは自己限定的・自己表現的生命にほかならない。
 ここまで、メルロ=ポンティの〈肉〉の存在論が切り開いた世界を、その存在論が前提としている『知覚の現象学』の成果を適宜想起しながら、できるだけその生き生きとした光景に焦点を合わて辿ってきた。その上で、私たちは、この章の締め括りとして、西田哲学の立場から、次のような問いをメルロ=ポンティの〈肉〉の存在論に対して向けなくてはならないと考える。〈肉〉の名のもとに、歴史的生命における創造ということを果たして考えうるのだろうか。
 メルロ=ポンティの〈肉〉の存在論に決定的に欠けているもの、それは創造性である。〈肉〉は己を再生産するだけであり、己ではないものを創造することはない。確かに、〈肉〉は生命の要素ではある。しかし、歴史的生命の世界として、己自身を限定しつつ自らを創造し続ける〈生命〉そのものではない。歴史的生命の世界においては、私たちの行為的・受容的身体が創造的要素となることができ、そのことによって、物が〈生命〉の表現となりうる。「我々の自己が創造的要素となる時、物は生命の表現となる」(全集第八巻六七頁)。
 私たちの課題は、しかし、西田哲学の観点からメルロ=ポンティの現象学的存在論を一方的に批判することではない。私たちがこれまで繰り返し言及してきた私たちの哲学にとっての根本概念である〈受容可能性〉、世界を創造的なものにしている根源的な〈受容可能性〉をそれとして捉えること、それこそが私たちの探究の最終目的である。そのためには、〈肉〉の生成を、自己形成的な創造的歴史的生命の世界から考えなくてはならず、その逆ではない。私たちがこれから考えなくてはならないのは、創造であり、円環的ではない時間性であり、再生ではない誕生である。一言にして言えば、創造的生命の哲学である。
 私たちの行為的・受容的身体が自らに与えることができ、世界の事物に与えることができる諸々の形はすべて生命の表現であるとすれば、哲学的表現とその他の表現、例えば、芸術的、科学的あるいは制度的な表現との違いはどこにあるのだろうか。西田は、「哲学は歴史的生命の全体的な行為的直観でなければならない」(全集第八巻八〇頁)と言う。とすれば、哲学は、自覚する〈生命〉、創造的歴史的生命のロゴスの表現でなければならない。一個の語る身体における自己形成的な〈生命〉の表現は、その都度新たな言語活動を必要とし、その言語活動は、歴史的世界の中の既得の言語の中に固定化されることを拒否し続けなければならない。
 この哲学的言語における創造はいかにして可能なのか。語る身体による哲学的創造はいかにして可能なのか。哲学的言語における創造が可能であるとして、それは詩的言語における創造とはどう違うのか。これらの問いに対する答えを、メルロ=ポンティのテキストの中に見出すことはできない。そこから立ち去る時が来たのである。私たちは、今や、〈生命〉の問題に真正面から向き合わなくてはならない。この課題に取り組む次章最終章では、本稿でこれまで留保されてきた諸問題がそれらをすべて包括しうる視野の中で取り上げ直されるだろう。


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