内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

離脱論(一)メディア・リテラシーの試験答案の採点作業を機縁として、マイスター・エックハルトへと立ち戻る

2022-01-23 21:55:49 | 哲学

 何か確たる根拠あるいは証拠があって言うわけではないのだが、自分に残された時間はかなり限られているのかも知れないと昨年末来思うようになった。体調が悪いわけではなく、検査を受けてその結果が悪かったわけでもなく、体調は絶好調と言ってもいいくらいなのだが、自分自身のより深い感覚として、呑気に構えていてはいけないのかも知れないと思うようになった。いまさら迂闊な話だとも言えるし、コロナ禍のせいでそんな思いに囚われるようになっただけなのかも知れないとも思われる。
 それはともかく、日毎に考えたことはこのブログに書き残しておきたい。それが何になるのか、と問われれば、確たる答えもないが、少なくとも、考えを書き残したという事実は残るだろう。しかし、それが誰にも読まれなければ、書き残したという事実さえ、誰にも知られないのだから、なかったのと同じではないか。仮に読まれたとして、読んだ先から忘れられるだけなのならば、やはり書かなかったのとほとんど変わりはない。
 まあ、よい。どうでもよい、という意味ではない。書くことで、本人は生きていると感じられているのだから、それで充分ではないか、という意味で、「まあ、よい」。
 さて、先々週の金曜日のメディア・リテラシーの試験答案を採点していて、面白いことに気づいた。「デジタル・メディアの再帰性に対して、それに直面する個人として、私たちが現に生きている消費社会の中でいかなる態度を取るべきか」というのが設問であった。その取るべき態度として、学生たちが答案の中で使っていた表現に三つの段階があることが採点しながら自ずと明らかになってきたのである。
 その三段階とは、「自覚する」(prendre conscience)、「距離を取る(置いて見る)」(prendre du recul)、「離れる、脱する、自由になる」(se détacher)である。
 この三段階を一連の態度として、それぞれの差異を明確にしつつ、その方法的階梯性を明確に規定するとどういうことになるか。この問いに対する私なりの答えを一昨日金曜日のメディア・リテラシーの授業のはじめに学生たちに提示した。
 第一階梯は、自分が置かれている状況を自覚するということ(それには問題となっている事柄の本質の理解の努力が含まれる)。第二階梯は、自分が置かれている状況から、一時的に距離を取り、状況をより広い視野の中で俯瞰的に捉え、問題の所在をより明確に把握すること。第三階梯は、状況を理解した上で、その中に立ち戻り、その中で状況に飲み込まれることなく、状況に応じて適切に行動しつつ、個としての自由を保つこと。
 学生たちの答案にここまで各階梯が明確に示されていたわけではない。ただ、彼らの言いたいことを整理し、そこから考えを発展させると、こういうことになるだろうと私が解釈したのである。
 その上で、私が学生たちに問いかけたのは、「離脱」(détachement)はいかにして可能であり、それは具体的にどういう在り方のことなのか、ということである。
 この問いに対する私の答えは、中世の古き学匠マイスター・エックハルトにおける「離脱」(中高ドイツ語 abegescheidenheit, 現代ドイツ語 Abgeschiedenheit)の思想を彼らに示すことであった。
 これは単なるハッタリでも虚仮威してもミスティフィケーションでもない。私としては「本気」なのである。
 明日以降の記事で、マイスター・エックハルトの「離脱」について、現代の私たちにとっての切実な問題として、しばらく考えたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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