内的自己対話-川の畔のささめごと

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忠誠論(十六)武士的な対峙的人倫観をふまえた独立の精神の自覚的克服という近代日本の課題

2022-01-22 11:50:34 | 哲学

 昨日の記事で読んだ相良亨の『武士道』の箇所の続きを読んでおきたい。
 卓爾として独り立つ大丈夫の精神の高揚が松陰の草莽崛起論をもたらしたことを相良は強調する。しかし、この大丈夫の独り立つ精神は、絶対的個の主張ではないという。「社会の中に生きる個人としての、他者におくれをとらぬ者としての自己主張であり、内容的には、その自己及び他者の属する社会の運命を自己一人の双肩に荷って立つという方向をもつものであった。」(194頁)
 松陰において、天朝も幕府も藩も「他者」として捉えられるに至っている。大丈夫にとって、他者は抹殺すべきものではなく、その力をたよりにすべきものでもなかった。武士の独立の精神の高揚は、分の秩序の否定ではなく、それを括弧に入れるものであった。この認識の歴史的意義は大きいと相良は強調する。

武士の個の主張は、他にまけず他の力をかりず、ただ自己のみの力を以て、自他をつつむ社会(それは藩でもありうる)の運命を荷って立つという構造を以てあらわれるものであった。(同頁)

 武士に流れてきた独り立つ精神が幕末に高揚し、それが明治の「独立の精神」にも受け継がれたと相良は見る。そこで問題になるのが、武士の独り立つ精神と明治の独立の精神との連続性と非連続性の問題である。しかし、この問題を十分にとりあげる準備がないので、概略的見通しを述べるにとどめるとして、相良は本書を締め括っている。その最後の二段落を引く。

 武士的な対峙的人倫観をふまえた独立の精神は自覚的に克服されなければならない。自覚的に克服されない限り、近代的な市民社会的な横のつながりは、日本人のものとなってこない。この百年間(『武士道』初版は1968年刊行 ― 引用者注)、われわれ日本人はこの点についてこの後いかに生きてきたであろうか。
 ともかく、われわれは過去とつながる自己自身と対決し、自己自身をその内面からのつくりかえをこころみなければならない。政治思想・社会思想の側面からの自己自身との対決も意味がないわけではないが、内面からのつくりかえが志されなければ、それらもまた砂上の楼閣にちかくなる。われわれの自己の内面との対決は、ただそれが唯一であるというのではないが、まず武士とわれわれは向いあわなくてはならない。その対峙的人倫観とその上につくられる独立の精神にメスを入れなければならない。

 この文章が書かれてから半世紀以上経った今日、私たちはこの問いと要請をどう受け止めるべきであろうか。いまさら武士論など時代錯誤だと一蹴すべきであろうか。私自身は、武士の独立の精神を強調する相良の武士道論に十分納得してはない。しかし、武士道における忠誠論の考察を通じて、上に引用した相良の問いと要請を私なりに引き受けてみようと思う。
 今日で十六回目となる忠誠論はここで一区切りとする。次の考察対象は、いわば今回の忠誠論にとっての「本丸」である丸山眞男の論文「忠誠と反逆」である。現段階では、いつからとはっきりと予告できないが、「忠誠と反逆」を精読した上で、忠誠論を再開する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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