内的自己対話-川の畔のささめごと

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離脱論(二)単純で自由な存在

2022-01-24 23:59:59 | 哲学

 日本語では「離脱」、フランス語では « détachement » と訳されることが多い中高ドイツ語 Abegescheidenheit(現代ドイツ語では Abgeschiedenheit)は、マイスター・エックハルトの説教・論述以前の中高ドイツ語には見られず、またラテン語の神学用語を語源とするわけでもないので、エックハルトによる造語と諸専門家によって考えられている。
 「離脱」をエックハルトの根本思想と考える専門家は多い。しかし、近年、特にフランス語圏でのエックハルト研究では、「魂の内における神の子の誕生」をエックハルトの最終的な根本思想として強調し、あくまでキリスト教世界内で西洋キリスト教史の枠組みの中でエックハルトの思想を理解しようとする傾向が目立ってきている。この傾向は、エックハルトの思想を非キリスト教的な宗教思想(特に禅仏教)と近づけて考えようとするドイツの一部の有力な専門家たちの立場に対する反発の顕れでもある。
 確かに、「離脱」を根本に据えてエックハルト思想を捉えようとすると、キリスト教を脱構築し、さらにはキリスト教圏を超脱していく可能性が出てくる。しかし、その是非を問うことがこの離脱論の目的ではない。それは私ごときが触れるにはあまりにも大きな問題である。
 まずは、専門家たちの導きに従いながら、エックハルトの言葉に耳を傾けよう。そのための最初の案内役は Encyclopédie des mystiques rhénans d’Eckhart à Nicholas de Cues et leur réception, sous la direction de Marie-Anne Vannier et alii, Cerf, 2011 である。
 エックハルトの「離脱」を考えるときに、必ずと言ってよいほど引用されるのは、ドイツ語説教53の冒頭である。「説教の度に私は離脱について語り、自分自身と一切から脱却すべきことを説く」(DWII, p. 528)。この箇所を引用した上で、上掲書の Détachement の項の執筆者 Stephanie Frost(ゲッティンゲン大学)は、「離脱は、必然的に存在の充溢へと導き、この単純ですべて被造物に属することから自由な存在に他ならない」と説明する。
 同項にはさらに、クヴィントの注釈が引かれている。それによると、「離脱」には、否定的と積極的との二面があり、前者は、被造物に対しても、自分自身に対しても、別れ、遠ざかり、一糸まとわぬ姿となることであり、後者は、神へと向かうことであり、離脱は、かくして、神秘的合一を基礎づける条件となる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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