内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

青空から虚空へ ― 西から東への哲学的架橋の試み(4)

2018-03-28 00:00:00 | 哲学

 空の〈青〉の純粋さを見ることができるのは誰か。
 それは「純粋な視者」(« voyant pur » )である。虚空の無限に透明な鏡を前にして、純粋な視者は純粋視覚を現実化する。
 空の〈青〉を前にした純粋視覚からは、すべての対象が追い払われている。そこでこそ表象と夢想との境界で相互浸透が起る。物象化によって隠されていた世界の無限の奥行の〈無〉がそこで回復される。そのとき、虚空の無限に透明な鏡の中の〈映り〉としてこの世界が立ち現れる。

D’abord il n’y a rien, puis il y a un rien profond, ensuite il y a une profondeur bleue (Bachelard, L’Air et les songes, op. cit., p. 218).

まず、何も〈無〉い。次には、〈深い〉無。そして、青い〈深み〉。











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1 コメント

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純粋としての忘却 (funkytrain)
2018-03-28 03:25:46
こんにちは。

随筆「芭蕉について」のなかで西谷啓治は、『花實集』に「先師常に、俳諧にのぞまば俳諧を忘れよ」とあったことにふれて、「平生の工夫」としての俳諧を忘れることの大切さを書いております。

かくして「俳諧に忘るるうへに今日何事かある」というその「今日」が問題である、と。「俳諧を忘れたところに今日といふ場が現はれてくる」と。それは「私意」を離れた「ものがもの自身のもとにあるところ」としての「無分別の場」「抽象的に言ふと物心一如の場」であると。

ここで言われている「忘れる」ということが、サイト主さんが書かれている「純粋な」ということになるのだろうと思います。

この工夫からの離脱としてのVergessenということが、一種のGelassenheitとして「唯見るもの聞く事俳諧ならずといふことなし」へと至るのか、というようなことを、サイト主さんの文章を読みながらつらつら思いました。
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