空の〈青〉の純粋さを見ることができるのは誰か。
それは「純粋な視者」(« voyant pur » )である。虚空の無限に透明な鏡を前にして、純粋な視者は純粋視覚を現実化する。
空の〈青〉を前にした純粋視覚からは、すべての対象が追い払われている。そこでこそ表象と夢想との境界で相互浸透が起る。物象化によって隠されていた世界の無限の奥行の〈無〉がそこで回復される。そのとき、虚空の無限に透明な鏡の中の〈映り〉としてこの世界が立ち現れる。
D’abord il n’y a rien, puis il y a un rien profond, ensuite il y a une profondeur bleue (Bachelard, L’Air et les songes, op. cit., p. 218).
まず、何も〈無〉い。次には、〈深い〉無。そして、青い〈深み〉。
随筆「芭蕉について」のなかで西谷啓治は、『花實集』に「先師常に、俳諧にのぞまば俳諧を忘れよ」とあったことにふれて、「平生の工夫」としての俳諧を忘れることの大切さを書いております。
かくして「俳諧に忘るるうへに今日何事かある」というその「今日」が問題である、と。「俳諧を忘れたところに今日といふ場が現はれてくる」と。それは「私意」を離れた「ものがもの自身のもとにあるところ」としての「無分別の場」「抽象的に言ふと物心一如の場」であると。
ここで言われている「忘れる」ということが、サイト主さんが書かれている「純粋な」ということになるのだろうと思います。
この工夫からの離脱としてのVergessenということが、一種のGelassenheitとして「唯見るもの聞く事俳諧ならずといふことなし」へと至るのか、というようなことを、サイト主さんの文章を読みながらつらつら思いました。