内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日々の哲学のかたち(4)― 古代哲学者の三つの軸、学派・都市・自己

2022-05-31 17:13:09 | 哲学

 昨日の記事で要点を示した exercices spirituels の共通要素からもわかるように、それは理論と実践を兼ね備えたものです。というよりも、理論と実践とが相補的であってはじめて成立するものです。学派によって両者の区別と関係や重きの置き方に違いがありましたが、理論と実践とが不可分であったことは共通しています。少なくとも古代においては、理論だけでも、実践だけでも、それは哲学たり得なかったということです。
 古代においては、exercices spirituels の実践者としての哲学者は、教授でもなければ、著作家でもありませんでした。ある生き方を自らの意志で選択し、他の市民たちとともに、しかし彼らとは違った仕方で生きることを選んだ人たちが哲学者だったのです。
 古代の哲学者たちの著作あるいは語録を読むときに注意しなくてはならないのは、書かれたものは、それ自体が最終目的ではなく、生きた言葉で語られたものの延長あるいは補助であり、何よりも重要なのは肉声でその場で発された言葉であって、その言葉がまさに向けられるべき人に向けられたとき、その言葉はその人の魂を動かし、導くことができます。そして、その言葉は一方的発されるのではなく、聴くものからの応答を伴い、そこに問答が生まれ、対話が生まれます。それが哲学なのです。
 したがって、それらの教説・問答・対話の内容と形は相手によって変わります。パヴィはその点について、古代の哲学者は三つの軸で捉える必要があると言っています。その三つの軸とは、自分の学派のなかで生きる哲学者、都市で生きる哲学者、己自身と生きる哲学者です。言い換えれば、弟子に対して話すとき(しかも、弟子にも高弟、古参、中堅、新入りとさまざまあります)、学派の外の一般市民と話すとき、そして、自らと対話するとき、それぞれの場合で使われる言葉も言葉の使い方も変わるということです。
 この点を無視して、「整合性」のある理論を残されたテキストから「再構成」しようとすることは、その哲学の本来の在り方を歪めてしまうだけでなく、テキスト間の不整合をただそれだけの理由で批判するという誤りを犯していることになります。この点を徹底的に明らかにしたのがピエール・アドだったのです。