内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「わたしに内在する、ふだんからの終始一貫した欠陥」― モンテーニュ『エセー』第三巻第五章より

2022-05-24 23:59:59 | 読游摘録

 ニーチェはモンテーニュを称賛していた。『反時代的考察』の第三篇「教育者としてのショーペンハウアー」のなかで、正直さという点においてショーペンハウアーと同等かあるいはそれ以上にモンテーニュを高く評価している。モンテーニュが『エセー』を書いたということそのことが、この世で生きる喜びをそれだけ大きくしているという。このもっとも自由でありかつ強健な魂を評価するのに、モンテーニュ自身がプルタルコスを称賛している言葉を引かなくてはならないとニーチェは言う。その言葉の一部をニーチェは引用しているが、それが誤ったドイツ語訳に拠っていて、ちょっと意味不明になってしまっている。問題の箇所は、モンテーニュがものを書いているときには、書物を同伴させたり、書物の記憶に頼ったりすることはしないで済ませているという話を第三巻第五章「ウェルギリウスの詩句について」のなかでしている一節に出てくる。ニーチェが引用した文の直前の数行から宮下志朗訳で見てみると次のようになっている。

プルタルコスを手放すのは、とてもむずかしくてできそうにない。プルタルコスは全知の人で、とても充実しているために、いかなる場合も、どれほど異常な主題を扱った場合でも、われわれの作業に加わってくれて、無尽蔵の富と潤色のネタをたずさえて、気前よく手を差しのべてくれるのだ。プルタルコスが、その著作を読む連中による剽窃という危険にまともにさらされていることが、わたしには腹立たしい。もっとも、このわたしだって、プルタルコスのところを、ほんの少しだけ再訪したときでも、彼からもも肉や手羽先を失敬して帰るわけなのではあるが。

 この最後の一文をニーチェはドイツ語訳に拠って引用しているのであるが、この文の言いたいことは、プルタルコスをちょっとでも読むと、つい「いいとこどり」したくなる、ということだろう。確かに、『エセー』についても同じことが言えるというのは私もまったく同感だ。
 上掲の引用箇所の直後の以下の箇所などもいかにもモンテーニュならではの一節である。

わたしのこの計画のためには、片田舎にあるわが家で執筆するのが好都合なのである。ここならば、だれも助けてくれないし、だれもまちがいを直してくれない。この場所でわたしが付き合うのは、「主の祈り」のラテン語もろくにわからない連中だし、フランス語はさらにだめな連中なのだ。別の場所でなら、もっとましなものができたかもしれないけれど、その著作からはわたしらしさが減ったにきまっている。なんといっても、この著作を完成させるにあたっての第一の目的は、それがまさしくわたし自身のものであるということなのだ。もちろん、偶発的なまちがいは訂正するつもりでいる。気をつけないでどんどん書いていくから、そうしたものはたくさんあると思う。しかしながら、このわたしに内在する、ふだんからの終始一貫した欠陥については、これを取り除くのは裏切り行為となろう。