内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「時間を駆け抜ける」― 保苅瑞穂『モンテーニュ――よく生き、よく死ぬために』より(一)

2022-05-26 05:21:13 | 読游摘録

 昨日の記事の終わりに挙げた保苅瑞穂(講談社学術文庫 2015年、初版 筑摩書房 2003年)は、宮下志朗氏が仰っているように、名著である。実に精妙かつ明晰な文章でモンテーニュの生動する思考の襞に分け入っていく。読んでいると、モンテーニュというこの上なく柔軟な精神の城館を名ガイドによって案内されているかのような感をもつ。
 例えば、「VII 変化の相のもとに」の「2 時間について」のなかで『エセー』第三巻第十三章の終わりのほう、つまり『エセー』全体の巻末に近いところに出てくる « passer le temps » という表現のモンテーニュ独特の使い方をめぐる評釈を読んでみよう。
 まず、『エセー』の当該箇所を保苅氏自身の訳で引こう。

私はまったく自分だけの辞書を持っている。私は時が悪くて不愉快なときには、時を通り抜ける je passe le temps。時が良いときには、それを通り抜けようとは思わない。何度もそれに手で触れて、味わい、それにしがみつく。悪い時はそれを駆け抜け、良い時はそこに立ち止まらなければならない。暇つぶしとか、時間を潰すとかいうこの通常の表現は、あの賢明な方々の生き方を表している。かれらは一生を流し、逃れ、通り抜け、潰し、巧みにかわし、また人生が辛くて軽蔑すべきものであるかのように、できるかぎりそれを無視して避けることほど、うまい生き方はないと考えている。しかし私は、人生がそういうものではないことを承知しているし、いま私がそれを摑んでいる最後の老境のときにあってさえ、価値がある、快適なものだと思っている。〔…〕人生を楽しむには、その切り盛りの仕方というものがあって、私は人の二倍は楽しんでいる。なぜなら楽しみの程度はそれにどれくらい身を入れるかに掛かっているからだ。とりわけ自分の人生の時間がこんなに短いことに気づいているいまは、それを重みの点で引き伸ばしたいと思っている。人生が逃げ去る素早さを、私がそれを摑む素早さで引き止め、人生の流れ去る慌ただしさを、人生を生きるたくましさで補いたいと思っている。生命の所有がますます短くなるにつれて、それだけ私はその所有をいっそう深い、いっそう充実したものにしなければならないのだ。

J’ay un dictionnaire tout à part moy : je passe le temps, quand il est mauvais et incommode ; quand il est bon, je ne le veux pas passer, je le retaste, je m’y tiens. Il faut courir le mauvais et se rassoir au bon. Cette fraze ordinaire de passe-temps et de passer le temps represente l’usage de ces prudentes gens, qui ne pensent point avoir meilleur compte de leur vie que de la couler et eschapper, de la passer, gauchir et, autant qu’il est en eux, ignorer et fuir, comme chose de qualité ennuyeuse et desdaignable. Mais je la cognois autre, et la trouve et prisable et commode, voyre en son dernier decours, où je la tiens […] Il y a du mesnage à la jouyr ; je la jouys au double des autres, car la mesure en la jouyssance depend du plus ou moins d’application que nous y prestons. Principallement à cette heure que j’apercoy la mienne si briefve en temps, je la veux estendre en pois ; je veux arrester la promptitude de sa fuite par la promptitude de ma sesie, et par la vigueur de l’usage compenser la hastiveté de son escoulement : à mesure que la possession du vivre est plus courte, il me la faut rendre plus profonde et plus pleine.

 先を急ぐ理由はないのだから、保苅氏の名評釈を聴く前に、今日のところは、まずこのモンテーニュの文章を味読しよう。そのために、保苅氏が省略している箇所も下に復元し、その箇所の宮下志朗訳も付しておく。

; et nous l’a nature mise en main garnie de telles circonstances, et si favorables, que nous n’avons à nous plaindre qu’à nous si elle nous presse et si elle nous eschappe inutilement. Stulti vita ingrata est, trepida est, tota in futurum fertur. Je me compose pourtant à la perdre sans regret, mais comme perdable de sa condition, non comme moleste et importune. Aussi ne sied il proprement bien de ne se desplaire à mourir qu’à ceux qui se plaisent à vivre.

自然は、これほど有利な状況まで添えて、人生をわれわれに手渡してくれたわけなのだから、もしこれが重荷となったり、役立つことなく逃れさったりしても、自分に文句をいうしかないのだ。《楽しみもなく、不安ばかりで、先のことばかりを考えているようなのは、愚か者の人生というしかない》(セネカ『書簡集』一五の九、エピクロスのことば)のである。したがってわたしは、思い残すことなく命を失えるようにと、きちんと覚悟を決めている――それも、つらく、あいにくのことなどではなく、ことの本質からして当然失われるべきものだと覚悟している。それにまた、死ぬことを不愉快に思わないというのは、生きることが好きな人間にこそふさわしいのである。