内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「自分だけの辞書」― 保苅瑞穂『モンテーニュ――よく生き、よく死ぬために』より(ニ)

2022-05-27 00:00:00 | 読游摘録

 保苅氏のそれ自体が明晰な文章を老生が言い換えても汚すことにしかなりませんから、氏の文章そのままの引用以外は、文意を損なわないように気をつけつつ、補足説明を加え、私なりの表現に置き換えることにします。
 「時間を過ごす passer le temps」という表現は、Le Grand Robert de la langue française によると、それだけで用いられるとき、« avoir des activités destinées à ne pas s'ennuyer pendant un temps » という意味になります。つまり、「ある時間、退屈しないために何かする」ということです。これが合成語として名詞化されて passe-temps となると 「暇つぶし」という否定的な意味が強くなります。他方、le temps の代わりに具体的に期間が示され、かつ前置詞 à+名詞あるいは動詞不定形を伴うと、「~をして~を過ごす」という意味になり、時間潰しという否定的なニュアンスには必ずしもなりません。例えば、« Il a passé des heures à contempler le paysage » という文は、「何時間も景色を眺めて過ごした」ということで、「それほど素晴らしい景色だった」という意味にもなりえます。
 モンテーニュはこのような常用を承知の上で、昨日の記事で引用した一節において「時間を駆け抜ける」という独自の意味で使っているのです。フランス語の le temps には天気という意味もあります。だから、時間のことなのか天気のことなのか、曖昧さを避けたいときには、前者は le temps qui passe [court] とし、後者は le temps qu’il fait として、どちらの意味で使っているのか明示します。モンテーニュは、逆に両意を重ねて使うことで「時間を駆け抜ける」に具体的なイメージを読者に与えようとしています。 この点について、保苅氏はこう注解しています。

この言い回しのなかから、天気が悪い日には、雨のなかを駆け抜けるという人間の生活の匂いがする情景も連想されてくる。昔の人の句に「幾人か時雨かけぬく瀬田の橋」(丈草)というのがあったが、例えばそんな情景である。十六世紀はまだフランス語の語法や文法が十分に確定されず、個人の発想や感性がフランス語を鍛える余地があった時代であって、ここに挙げたものはささいな例かも知れないが、そうした時代を背景にしてモンテーニュが「自分だけの辞書」を使って書いた言葉の妙味を味わわせる一例になっている。

 どうですか。本書を全部読んでみたくなりませんか。この「試食」で「食欲」をそそられた方は、どうぞ「フルコース」を召し上がってください。そうして損はないどころか、幸福な満腹感で心が満たされ、この本に出会えてほんとうによかったときっと思われるはずです。そして、どうしても『エセー』が読みたくなることでしょう。
 最後に、一言、自己宣伝をさせていただきます。先日も一度話題にした拙稿が掲載されている『現代思想』6月号は本日発売です。拙稿のタイトルは「食べられるものたちから世界の見方を学び直す――個体主義的世界観から多元的コスモロジーへ」です。書店あるいは図書館などでご覧いただければ幸いに存じます。