内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日本学科でプラトンについて学ぶということ

2021-09-24 23:59:59 | 講義の余白から

 金曜日は10時から14時まで連続で授業があり、最初の「近代日本の歴史と社会」が2時間、残りの2時間は、「メディア・リテラシー」の1時間授業が2コマ。間に5分から10分の休み入れるにしても、トイレ以外で教室を離れる時間的余裕はない。
 最初の2時間授業は立って話すことが多い。スライド上のテキストの重要部分をポインターで示しながら、スクリーンの前を行ったり来たりする。その方が話にメリハリがつけやすい。
 残りの2コマは座って話す。スライドを入念に作ってあり、それを見せながらもっぱら学生の方を向いて話す。特に、最後の1時間は別の学生グループが相手で、教室も違う。その教室は小さく、立って話すとスクリーンが隠れてしまう。
 この最後の1時間とその前の1時間とは、同じ「メディア・リテラシー」の授業なのだが、後者のグループは日本学科とは違うコースの学生たちで、明らかに日本語のレベルが落ちる。これは彼らの責任ではなく、カリキュラムの違いによる。
 だから、同じテキストを使いつつも、二つのグループの間で徐々に進度の違いが出てくる。語彙レベル・構文レベルを日本学科の学生たちのレベルに合わせてあるので、この後者のグループの学生にはちょっとレベルが高すぎる。だから噛んで含めるように一文一文説明し、難しい段落は私が内容をまとめるだけで飛ばして先に進む。
 実は、メディア・リテラシーを2グループに分けたのは私の個人的な発意(もちろん同僚の了解は得ている)で、もともとは1コマだけ。それを学生たちのコース別に2グループに分けた。つまり、1時間無報酬で働いている。だが、そうしてよかったと思っている。もし合同でやっていたら、レベルの低いグループはすぐについて来られなくなる。それでは彼らに気の毒だ。
 彼らは、英語と日本語を併習するコースにいて、課題の量がメチャクチャに多く、日本語の勉強に充てられる時間は自ずと限られる。だが、真面目で学習意欲が高く、知的レベルも高い学生が多い。授業中の反応はこちらのグループの方がいいくらいなのだ。
 こちらの準備は一つの授業と変わらないので、1時間増えたこともさほど負担ではない。最初の1時間よりも内容を軽くすればいいだけのことで、その余裕が私に冗談を言う気持ちのゆとりを与え、それが学生たちの緊張もほぐし、結果としてクラスの雰囲気もよい。
 前者のグループの雰囲気が悪いわけではないが、どうも日本学科の学生たちというは、話が日本から離れると、注意力が散漫になりがちだ。「それが私たちに何の関係があるの」と言わんばかりの顔をしている学生は一人や二人ではない。
 今日、プラトンの『パイドロス』の話を始めたら、先週はプラトンの「洞窟の比喩」の話をしたこともあり、教室が少しざわついた。「またプラトンかよ」とはあからさまには言わないが、顔にそう書いてある。しかし、ムネーメ―とヒュポムネ―シスの話にはちょっと惹きつけられたようである(ざまあみやがれ)。来週も『パイドロス』の続きである。