内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

新渡戸稲造『武士道』の仏訳比較検討から見えて来る、フランスにおける日本研究の宿痾

2021-09-14 21:47:16 | 雑感

 6時23分からきっちり1時間で10,3キロ走る。今日のシューズはミズノの Wave Inspire 17。交互に履き替えている4足のうちで285グラムと一番軽い。その他はどれも300グラムを超える。接地の感触が一番「しっとり」としているのはミズノだ。足首のホールド感は他の3足に劣るが、地面の形状の変化が最もよく感じられる。同じコースを走っていても、脚に感じられる感触がシューズごとに違う。それに応じて風景もちょっと違って見える。どれがベストか決めてしまうよりも、シューズそれぞれの特性に合わせて走り方を変えるほうが面白い。
 明日の修士の授業の準備として、新渡戸稲造の『武士道』の3つの仏訳を比較しながら読む。読みながら怒りが込み上げてきた。以下がその理由である。
 1927年刊行の Charles Jacob の旧訳は、当時の水準としてはとても良心的な訳だと思う。BNU  の Gallica で初版の写真版が無料でダウンロードできる。ただ、アマゾンで購入できるその電子版は、幼稚な誤植だらけで話にならない(こんな代物を商品として売りつけんじゃねーよ。安けりゃいいってもんじゃねーんだよ!)。
 1997年刊行の Emmanuel Charlot 訳は、新渡戸フリークらしい武道家による杜撰な訳だ。訳し落としがそこら中にあり、全体に自分の「フィーリング」で訳しただけ。身も蓋もなく、はっきり言おう。学問的訓練もプロの翻訳者としての経験もない、頭が筋肉的な体育会系は翻訳に手を出すな! 自分は新渡戸の崇拝者のつもりかも知れないが、贔屓の引き倒しなんだよ!
 仏訳としては、2019年の Laurence Seguin 訳が優れている。ただ、武道家としては高名らしい Alexander Bennett の同書の序説には、日本史に関して、どうしたらこんないい加減な事実誤認がチェックされないままに出版されてしまうのかと叫びたくなるようなデタラメな記述が随所に散りばめられている。
 これらの事実が示しているのは、1900年の刊行直後から欧米で大ベストセラーとなった『武士道』が、まさにその過去の輝かしい栄光と戦時中の悪用・乱用ゆえに、本来それに値する真剣な学問的研究の対象にはフランスではなっていないということだ。言い換えれば、本書 Bushido の世俗的な成功と戦中の日本を全否定する教条的で非生産的で硬直的な歴史観とが、「真面目で優秀な」研究者たちを本書から遠ざけているのである。
 念のために言っておくが、私は新渡戸の礼賛者ではない。ただ、フランスにおける日本研究のあまりにも中華思想的で上から目線的な態度(いつまでやってんの?)にうんざりしているだけだ。
 ここでも、はっきり言っておこう。自分たちの大好きな「美しい日本」にそぐわない近代日本の「負の遺産」から目を背ける輩は、京都学派の哲学者たちの著作をろくに読みもしない(というか、読めさえしないんだろう、くそムズカシイもんね)で、軽佻浮薄な偏見だけから蛇蝎のごとにそれらを嫌い無視するだけではなく、利いた風な批判(にも値しないが)を平気で口にして事足れりとする連中と同じ穴の狢である。
 それら欧米人に尻尾を振る日本人が今でもいるって? そうだね、確かにいる。私は彼らと同じ日本人であることを心から恥じる。