内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

歩行するエピキュリアン ― 歩行と思考のシンクロナイゼーションという快楽

2021-09-15 23:59:59 | 雑感

 今日は走らなかった。早朝から今にも雨が降り出しそうな空模様だった。でも、それが走らなかった理由ではない。今日の午後の修士の演習の準備として、新渡戸稲造の『武士道』の最新の仏訳に付された序説と、二つの現代日本語訳(ちくま新書と角川ソフィア文庫)それぞれの訳者による解説とを読みながら、あれこれ考えているうちに数時間が経ってしまい、その間、案の定、雨も降り出し、ジョギングに出かけるタイミングを逸してしまった。
 午後3時20分、小雨がぱらつく中、演習を行う教室がある政治学院と地理学部の建物に徒歩で向う。30分余りかかる。天気予報によれば、日中ときどき小雨程度だから、以前なら迷わず自転車を使った。単純に、その方が早いからであり、それだけ時間の「ロス」が少ないからである。ところが、昨年春のコロナ禍以来、ウォーキングをするようになって考えが変わった。どうしても時間が足りないとか、荷物が重いとか、徒歩での移動を著しく困難にする条件がないかぎり、移動は、原則すべて徒歩である。
 それは健康のためでは必ずしもない。そのためだけなら普段のジョギングだけで十分だ。それよりも、歩いているときに感じられる快さが主な理由になっている。この快さはどこから来るのだろうか。思うに、それは、思考と歩行の同期(synchronisation)にある。
 水泳を日課としていたとき(とうとう回想的な言い方になってしまった)、それは一日の始まりを身心のリセットから始められるという効果があった。ジョギングにもその効果がある。泳いでいるときは、考えることを止める。というか、自分なりにかなりハイペースで泳いでいたので、何か考えている余裕はなかった。ゆっくり走っているときは、あれこれ考えはする。しかし、一定の論理にしたがって展開させる緻密な思考はできない。一点に思考を集中させるには、やはりじっとしている必要がある。
 これらいずれの場合も、思考のプロセスと身体運動との間に同期は成り立っていない。ところが、歩いていると、この同期が自ずと成立する。いわば、思考が歩く。京都学派っぽく言えば、歩行即思考、思考即歩行、である。この「即」が快楽の源泉なのだと思う。