内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

パスカルにおける多様性についての考察途上で発生したスピンオフ的断想

2018-12-08 13:45:46 | 哲学

 パスカルの『パンセ』に即して多様性について考察しようと、あれこれ参考文献を読んでいるうちに、以下のような断想が発生したので、それを「スピンオフ」としてそのまま書きつけておく。
 宗教に関して、狭隘な教条主義や排他的な原理主義を否定し、信仰の多様性を認める「寛容」の精神が〈近代〉の指標の一つであるとすれば、〈近代〉は最初から解消不能な矛盾をその裡に胚胎していたと言わなくてはならない。
 なぜなら、多様性の容認は、条件つきであり、有限でしかありえないからである。多様性それ自体を価値として絶対化することには原理的な矛盾がある。自己を相対化することによってしか、多様性は容認されえないからである。
 対話が可能になるのは、この自己相対化という条件下においてのみであり、いわゆる宗教間対話が結局のところ不毛な結果に終わるのは、この条件が実は満たされていないのに、表面的にお話しするだけだからである。そんなことは千年続けても何ももたらさない。
 〈私〉が自分と異なった存在を認めうるのは、その存在が〈私〉の存在を破壊しない限りにおいてである。多様性を認めるのは、それが自分の存在を脅かすことなく、自分にとって益するところがあり、この世界の「いろどり」として楽しめるときである。そこから譲歩するとしても、多様性が与える苦痛が忍耐の限界を超えないかぎりでしか、〈私〉は多様性を容認できない。
 寛容は、無条件に〈許す〉ことではない。苦痛の軽重の客観的計量の結果に基づいて理性的に選択された暫定的態度であり、それはこの「多様な」世界に生きるための一つの「智慧」である。