内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

パスカルから離れ、« suppôt » を導きの糸として、ヴァンサン・デコンブとリュシアン・テニエールを経て、西田哲学へ

2018-12-11 17:35:11 | 哲学

 昨日の記事で引用したパスカルの断章に見える « suppôt » という言葉に私が特に注目したのには、もう一つの哲学的理由があった。
 2004年に出版された Vincent Descombes (1943-) の Le complément de sujet. Enquête sur le fait d’agir de soi-même, Gallimard にこの語が使われており、それがリュシアン・テニエール(Lucien Tesnière, 1893-1954)の Éléments de syntaxe structurale(Klincksieck, 1959, 邦訳『構造的統語論要説』研究社, 2007)とリンクさせられている。
 テニエールの構造的統語論の根本的テーゼは、動詞を文の中心に置き、主語を含めたその他の要素をすべて動詞に依存する存在と規定することにある。このテーゼは、西欧言語学で伝統的な主語・述語の二項構造に真っ向から対立する。このテニエールの根本テーゼに従えば、 「主語は、その他の(文の要素)と同じく、補語の一つである」« le sujet est un complément comme les autres » (Éléments de syntaxe structurale, p. 109) 。
 例えば、« Alfred frappe Bernard » という文で、Alfred は、frapper (叩く)という動詞の「第一行為項」(le « premier actant »)であり、 Bernard はその「第二行為項」(le « second actant »)である。両者の間に構造的な「主従関係」はない。両者ともに動詞が表している動作が実現するのに必要とされる「補語」として同等である。 Alfred と Bernard は、いわば「叩く」ことがテーマの舞台の上でこのテーマが実現されるためにどちらも必要な二人の登場人物である。
 このテニエールの構造的統語論の哲学的射程の深さに気づいたデコンブは、この二つの行為項を指すのに suppôt という「古語」を導入する。

Je reprends ici le vieux terme de suppôt pour désigner l’individu en tant qu’il peut jouer un rôle actanciel dans une histoire, de sorte qu’on peut demander s’il est le sujet de ce qui arrive, ou s’il en est l’objet, ou s’il en est l’attributaire (Descombe, op. cit., p. 14).

 つまり、suppôt とは、ある行為が成立するために限定された支えのようなものである。それなしには行為が成立しないという意味では、日本語の「主体」という言葉を使うこともあながち間違いではないが、上掲の例文に即して言えば、 Alfred は「第一主体」であり、Bernard は「第二主体」ということになり、しかも「第一」「第二」といっても、構文上現れる順番に過ぎず、両者の間に上下関係はない。
 しかし、「主体」という語には、それが独立の行為主体として行為に先立って存在する個体を指し、しかもそこから一切の実体性を払拭しきれないという懸念がある。そこで、西田哲学の語彙を援用して(西田の意図に必ずしも忠実でないことは認めた上で)、二つの行為項を、「叩く」という述語面における相互に相対的な被限定的個物と呼んでみてはどうかと私は考えている。