内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

かぐや姫の罪と罰、あるいは積極的無常観について

2018-10-20 22:43:18 | 講義の余白から

 昨日金曜日の「日本文明文化講座」では、来週の試験のための資料提示として高畑勲の『かぐや姫の物語』の一部を見せながら、作品の細部について解説を加えつつ、学生たちにいろいろな問いを投げかけた。
 学生の大半は同作品をすでに観たことがあり、中には繰り返し観たことがある学生もいた。だから、彼らはもう内容はよくわかっているつもりでいたようだ。しかし、日本語オリジナル版を注意深く観たわけではないし、仮にオリジナル版で観たとしても、彼らの日本語能力では日本語の表現の細部のニュアンスを捉えることはできなかったはずである。
 そこで、まず、原作である『竹取物語』の原文の一部を読ませ、高畑がどのように原作を解釈しているのか、原作にはない登場人物やエピソードをどこにどれだけ組み込んでいるかを示し、それはなぜなのかと問うた。より一般的には、原作・解釈・創作の関係を考えさせた。
 参考資料として、『かぐや姫の物語』の脚本を高畑勲と共に担当した坂口理子によるノベライズ(角川文庫)の一部を読ませた。そこには、かぐや姫の罪と罰について高畑が与えた解釈が映画でよりもよりわかりやすく示されているからである。
 そして、拙ブログの2014年8月26日の記事で取り上げた高畑勲へのインタビュー(『ユリイカ』2013年12月号)で、高畑が日本人の「積極的な無常観」について語っている箇所を読ませた。これはもう作品解釈というレベルを超えた問題である。
 来週の試験では、これらの「事前学習」を踏まえた上で、問題はすべて日本語で与えられる。しかも口頭のみで与えられるから、問題が聴き取れなければ、そこでおしまいである。しかも、暗記してくれば答えられるような問題は、お情けで点数をあげるための小問以外には一問もない。あとはすべて思考力を試す問題である。