内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

万聖節休暇初日、日本学科長としてあるまじき老いの繰り言

2018-10-27 12:35:08 | 雑感

 仮にも日本学科の長たるものとしてあるまじき発言だというお叱りを受けるであろうことを承知の上で敢えて申し上げたいのですが、大学で日本語および日本文化についていくばくかの知識を身につけたところで、その後の学生たちの職業的人生にとって、それはほとんど何の役にも立ちません。
 そのような教養的知識は、信頼できる参考文献を読めば独学で得られることで、わざわざ大学で三年もかけて学ぶには及ばないことがほとんどです。今は、インターネットを上手に使えば、さほどお金をかけずに、かなりのレベルまで独学で到達できます。そこから導かれる当然の帰結の一つは、もっとその後の人生に「役立つ」実学を大学では学ぶべきであろう、ということです。
 幸いにも自分がそこで食い扶持を得ている職場について、そこでそれこそ献身的に日本語教育に携わってくださっている先生方が現にいらっしゃることを知りつつ、このような言辞を弄することは、自虐的であるだけでなく、偽善的・侮辱的・不誠実だとの誹りを免れがたいことは自覚した上でこう申し上げています。私なりに切実な気持ちがこう言わせているのです。
 プロとして仕事をする上で絶対に必要とされている最低限の知識が明確に規定されている分野に関しては、こういう問題は発生しません。まだ無知な学生たちがなんと言おうと、「つべこべ言わずに、これだけは絶対に身につけろ!」と、教える側も自信をもって強制できます。それはまさに学生たち自身の将来のためだと断言できます。
 ところが、日本学科は、その高い人気(ストラスブール大学で教えられている25の言語のうち、履修者数が英語に次いで第二位)にもかかわらず、「そんなところに行って、その後、おまえどうするつもりなんだ!」って、親たちから反対される学科の代表格なのです。
 確かに、親御さんたちのお考えは、将来の職業生活を第一に考えて進路を選択するという現実的な判断基準からすると、実にもっともなのです。準備時間が与えられれば少しまとまった話が日本語ででき、一般書レベルの日本語の文章数頁を辞書を片手にニ・三時間かければ理解・翻訳でき、千くらいの漢字が書け、一応理解可能だが変な日本語の文章を綴ることができ、平均的な日本人学生よりは日本文化について若干ましな知識を身につけたとして、それが就職に有利に働くことはまずありません。
 親の反対を押し切って、あるいはやっとのことで説き伏せて、日本学科に登録しましたって、目を輝かせて言いに来てくれる学生たちを前に、申し訳なさで俯いてしまったことが私には一再ならずあります。実際、かなり優秀な成績で卒業しても、学部卒だけで就職はまずありません。まあこれは、フランスの場合、日本学科に限った話ではないのですけれど。
 日本学科に来たいという志願者たちを前に私はいつも思うのです、「その気持はとてもありがたい。ほんとうにありがとう。でもね、君たちのこれからの長い人生を考えたら、多くの場合、日本学科には来るべきではないのだよ。日本のこと日本語のことが好きでいたいのなら、むしろ来ないほうがいいくらいなのだよ」と。でも、私の気持ちは伝わらず、彼らは来てしまいます。
 彼らの気持ちがわからないわけではありません。というのも、フランスでは、高校までに日本語を第二あるいは第三外国語として学ぶ機会が非常に限られているのです。日本学科に来る学生たちの多くは、子供の頃に読んだ漫画や観たアニメから日本語と日本文化に憧れるようになり、その「純粋な」気持ちが、高校修了時まで日本語学習の現実の厳しさに晒されることなく保存されるか、その間にさらに強まってしまい、そして、やっと大学で晴れて日本語が学べる! と、喜び勇んで日本学科にやって来るのです。
 そして、そのような学生たちの多くは、遅かれ早かれ、期待はずれと見込み違いで失望し、やる気を失ってしまいます。一年から二年に進級できるのは30%程度、二年から三年に進級できるのが六割程度、三年間で卒業できる学生は、一年時入学者全体の一割前後に過ぎません。それに、無事に卒業できても、就活でえらく苦労することになるのです(ちなみに、フランスの大学には、日本の大学のそれに比べられるような就活支援システムはありません。卒業時に就職が決まっている学生は、いわゆる文系に関するかぎり、ほぼ皆無です)。
 こちらが頭を下げて来てもらったわけでもないし、無理やり引きずり込んだわけでもないし、ましてや騙したりなどしていないのに、彼らは来てしまう。そして、彼らは失望するわけですから、少なくとも半分は来た君たち自身のいわゆる「自己責任」だろって開き直ることもできます。しかし、そんなことをしても、誰のためにもなりません(ちなみに、2000年代前半小泉政権下で急速に普及するようになったこの「自己責任」という言葉を私は蛇蝎のごとく嫌っています)。
 卒業後一・二年間就活に苦労したって、大学で学びたいことを学んだということがその後の長い人生の支えにならないともかぎりません。そのような苦労は承知の上で、それでも日本語・日本文化を自分は学びたいのだという真面目で熱心な学生たちには、もちろんできるだけのことはしてあげたいといつも思っています。
 ただ、卒業時の彼らの日本語の平均的なレベル、労働市場の現実の厳しさを思うと、日本学科の「人気」を素直に喜ぶ気にはどうしてもなれないのです。