先週金曜日の「日本文化・文明講座」では、今日の記事のタイトルに掲げた番組・映画のごく一部を、日本語での私の解説を交えながら、学生たちに観させました。〈生きる〉とは、〈住まう〉とは、〈暮らす〉とは、〈食べる〉とは、〈人と共に生きる〉とは、〈自然と共に生きる〉とは、〈死ぬ〉とは、〈死者を送る〉とは、などなど、誰にとっても避けがたく抜き差しならぬ大切な問題を考える一つのきっかけにしてほしいと願ってのことでした。
列挙した問いの形からわかるように、問題を「動詞で」考えることの大切さを伝えたかったということもありました。生とは、住居とは、暮らしとは、食とは、共生とは、自然(との共生)とは、死とは、葬送とは、などなど、大きな問題になればなるほど、私たちは「名詞で考える」傾向があります。しかし、そのような態度は、そもそも問題の核心から私たちを遠ざけてしまいかねません。学生たちには、そのことに気づいてほしかったのです。
とはいえ、わずか一時間の授業ですし、上掲の諸問題はそれぞれに大きな問題ですから、それをあからさまに掲げては、学生たちは引いてしまうだろうと、私の解説では、聞き取るのが難しいと思われる部分について易しく言い換えたり、細部について補足を加えるにとどめ、後は番組と作品の登場人物たちにそのまま「語ってもらう」ようにしました。
昨年東海テレビで放映された『居酒屋ばあば』は、ドキュメンタリー映画『人生フルーツ』でナレーターをつとめた樹木希林が映画の主役であった津端夫妻の英子夫人(夫の修一さんはドキュメンタリー映画作成中に亡くなり、その亡くなった姿が映画の中で大写しされる場面があります)を番組のゲストとして招き、名古屋市中区栄のある居酒屋でおばあさん二人の「女子会」をするという設定でした。番組で『人生フルーツ』の一部が紹介されているのですが、まず、その部分を見せ、次に、樹木希林が高蔵寺ニュータウンにある津端夫妻の家を訪ねる場面を少し見せ、最後に、番組の終わりの方で樹木希林が英子さんに向かって、自分は全身癌だが、一切の延命治療を拒否して、病院では定期的に検査と緩和治療のみを受け、「自然に死を迎えたい」と語っているところを見せました。ここまでで授業の前半30分を使いました。
そして後半は、『おくりびと』から主人公の大吾(演ずる本木雅弘が樹木希林の娘婿だという、本筋とは関係ない情報も補足しました)が納棺師という仕事をいかに受け入れていくか、それに対して妻や友人たちの理解を得ることは容易ではなかったことがわかるように、いくつかの場面を選んで見せ、納棺師という、一見古くからの伝統に則っているかのように見える仕事が実は戦後にできた仕事であること、それはなぜだったかなどを補足情報として与えました。
学生たちは概してよく集中して観てくれました。そして、授業後に学生たちが送ってくれた感想の中には、なかなか読みごたえがあるものがいくつかありました。中には、当該の番組や映画を授業後に全編観た上で、授業では触れもしなかった場面についての考察を書いてくれた学生もいましたし、授業で見た番組や映画をきっかにして自分が死について考えたことを詳しく書いてくれた学生もいました。番組と映画とから共通の問題を引き出したレポートもあれば、逆に両者の対照性を強調しているのもありました。
「いつものように自由に感想を送ってください」と授業の終わりに一言言っただけだったのですが、学生たちの何人かは、授業後に番組や映画全編を見直して、いつにも倍して長いレポートを自発的に書てくれました。それは番組と作品そのものにそうさせる力があったということでしょう。
日本において日本人が日本の現実に即して日本語で作った番組や作品を観たことが、上掲の諸問題のいずれかについて何かを大切なことを摑むきっかけになってくれたとすれば幸いなことです。