内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

カイロスとクロノス(18)― メシア的時間、それは時間の表象を終わらせるための時間である

2018-10-04 17:15:42 | 哲学

 昨日の記事まで四日間にわたって、ギュスターヴ・ギヨームにおける操作時間についてのアガンベンの説明を、講義の準備や雑務の合間を縫って、少しずつ読んできた。正直なところ、いまだによく理解できているとは言えない。しかし、今はこれ以上理解を深める、あるいは大いに可能性がある誤解を訂正する手立てがない。
 それはそれとして、今日の記事からは、この操作時間という概念をアガンベンがどのようにメシア的時間の理解に適用するのかを見ていこう。
 私たちが時間について形成する諸表象のいずれの中にも、私たちがその中で時間を定義し表象するその都度の言語行為の中にも、その後にやってくる時間が含まれており、この時間は表象の中でも言語行為の中でも汲み尽くされることがない。それはあたかも人間が、考えるもの・話すものとして、時系列的時間に対してそれよりも遅れてやってくる時間を作り出しているかのようだ。この時間が、時系列的時間が己にそのイメージや表象を与えることができる時間と完全に一致することを妨げているかのようだ。
 この後からやってくる時間は、しかし、別の時間ではない。時系列時間にその外からつけ加えられるような追加の時間ではない。この時間は、いわば時間内時間である。だから、より正確には、後からやってくる時間ではなく、内的時間と言ったほうがよい。この内的時間が私と時系列的時間(言い換えれば外的時間)との〈ずれ〉、私自身に固有な時間表象と私との乖離あるいは両者の不一致を計測させずにおかない。
 しかし、まさにそれゆにこそ、この乖離あるいは不一致は、己に固有な時間表象を完成させ把握することができる私の能力の指標でもあるのだ。
 以上の論拠を基に、メシア的時間について最初の定義をアガンベンは提示する。メシア的時間とは、終わりにするために時間が要する時間である。より正確には、私たちの時間表象を終わらせるため、それを完成させるために私たちが用いる時間である。