内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

寛容と不寛容とに共有されている半無意識的な一神教的排他性

2016-12-01 20:20:33 | 読游摘録

 一昨日お約束したとおり、今日の記事では、マウリツィオ・ベッティニ『多神教を讃えて』の中で議論の出発点として挙げられている最近のイタリアでの二つの出来事を紹介しましょう。
 ただ、紹介の前に一つ断っておきたいのは、著者が挙げているこれらの実例は、決してヨーロッパ全体にそのまま一般化できるような典型例ではないということです。このことは著者自身注の中で断っています。例えば、この二つの実例は、政教分離が伝統的に守られてきた(って、最近はちょっと怪しいけれど)フランスにはそのまま当てはまりません。
 さて、最初の出来事は、「寛容」(tolérance)の「良き」例として挙げられます。何年のことかは著者が明記していないのですが、ここ数年のことだそうです。公立学校の先生たちが、ある年、クリスマスの季節の昔からの伝統行事だった « la Crèche »(「馬槽」[クリスマスのころ教会やクリスマスツリーの下に飾られるキリスト誕生の馬小屋の模型])を学校で行うことを取り止めたのです。理由は、キリスト教以外の宗教を信仰する人たち(具体的には、同じ学校に通うイスラム教徒の子女たちのことです)にとって、この行事は彼らの敬う神とは違う神への信仰を押し付けることになるから、ということだったそうです。
 この決定は、イタリア全土で決定を支持する人たちと反対する人たちとの間に大きな論争を引き起こしたそうです。それはともかく、教師たちの決断は、宗教的寛容の「良き」例だろうと著者は言います。なぜなら、自分たちの信仰にとって大切な行事を中止することによって、他の宗教を信仰する人たちの感情に配慮したからです。そこまで譲歩して、同じ学校に通う他の宗教を信仰する子どもたち及びその家庭に対する「寛容の精神」を発揮したというわけです。
 さあ、もう一つの出来事です。これはまさに上掲例の真逆で、「不寛容」(intolérance)の「良き」例として挙げられます。上掲例とほぼ同じ時期に、あるイタリア人女性ジャーナリスト(イタリアではかなり知られている人だそうです)が、自分が住んでいる地方にイスラム教のモスク建設計画が立ち上げられたと聞いて、もしそれが実行されるなら、自分は知り合いの筋から入手可能な爆弾を使って、それを爆破すると公言したそうです。彼女がそう主張する理由は、「自分が住んでいるトスカナ地方の風景にモスクは似合わない、自分はそれに耐えられない」ということだったそうです。言うまでもないかも知れませんが、この女性ジャーナリストの「脅迫」に対しても、賛否両論の嵐が巻き起こったそうです。
 さあ、ここからが問題です。この相互に真逆とも見える二つの事例は、相容れない「寛容」と「不寛容」との対立の「良き」例なのでしょうか。
 著者は、そうではない、と言います。この「寛容」と「不寛容」とは、どちらも一神教的信仰の排他性から生まれた二つの態度、つまり同じ「母親」から生まれた「不倶戴天の」双子なのです(この表現は著者のものではなく、私が考えたものです)。つまり、いずれの場合も、二つの異なった一神教的信仰は、同じ場所には共存し得ない、という前提に立っていると著者は言うのです。
 いかがでしょうか、古代ギリシア・ローマの多神教的世界とはまた違った多神教的世界に現代も生きていらっしゃる日本人の皆様。そんなことだから、一神教にしがみついている連中の世界では、いつまでたってもテロがなくならねえんだよ、とか、他人事のようにお感じになりますか。でも、「美しい」日本も「狂信者たち」のテロの対象外だとは言えないのですから、一神教的信仰と寛容の精神の問題は、日本に住む日本人も、やはり、真剣に考察すべきだろう、とはお感じなりませんか。