内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

夏の終わりの自省録(1)

2013-08-29 02:00:00 | 雑感

 8月も終わりを告げようとしている今、新学年の仕事始めを目前にして、ここ数ヶ月の自分のことを少し振り返り、気持ちを整理し、気分を切り替えておきたい。そのためには自己分析作業を必要とするが、その作業自体を目的とするものではなく、それを経た上で、最終的には、7月8日の記事で話題にしたような、藤原正彦が言うところの人間の能力を開花させる絶対条件としての「勇気と楽観」を自分に取り戻す途を見出すことが目的である。この「勇気と楽観」は、危険についての冷静な認識を欠いた蛮勇と知性と相容れない盲信とであってはならないであろう。
 こういう内容の文章は、書きだすと止まらなくなるおそれがあり、それでは仕事に差し障りがでてしまうので、自分の感情に歯止めをかけ、自分を冷静にゆっくりと見つめなおすために、今日、明日、明後日の3回に分けて、少しずつ記事にしていくことにする。
 こんな言い方をすればいささか大げさに聞こえるかもしれないし、いい年をして青臭い物言いとも取られかねないと躊躇する気持ちもあるが、敢えて言えば、この4月以来、人生最大の精神の危機とぎりぎりのところで独り戦っている。
 今月19日、この夏の日本滞在最後の日に投稿した記事にも書いたように、6月2日にブログを始めたのも、いわばこの精神の危機へ対処するための「戦術」の1つとしてであった。この作戦はある程度成功し、日常的に一定の効果を上げていると実感しているが、他方では、本当の問題はこのままでは何も解決しないことも、改めて一層明確に自覚されてきてもいる。それは最初からわかっていたことではなかったのかと言われればまさにその通りだが、ブログを始めた時点では、それこそ藁にも縋る思いだった。もともとは健康増進を目的として4年前に再開した水泳も、私の精神を蝕むこの危機に対してのそれこそ全身を使っての必死の防戦といった様相を今ではむしろ帯びている。
 このごろよく「SNS依存症候群」「スマートフォン依存症候群」「インターネット依存症候群」などの言葉をメデイアで見かけるが、これはほんとうに他人事ではないと思う。これらの社会現象としての病的傾向性に医学的に明確な定義を与えることはできないだろうが、私自身の目に止まった関連情報を総合して、これらの症候群に共通する簡単な一応の規定を与えるとすれば、「生身の人間である他者との直接的コミュニケーションが、WEBを媒体とした間接的・部分的・擬似的なコミュニケーションに取って代わられ、後者がその人の日常生活の最も大きな部分を占め、そのことがその人の社会的生活・家庭生活・人間関係に支障をきたす程度にまで深刻化した状態」となるだろうか。
 素人の自己診断では、私自身はまだそこまでは行っていないと思われるが、依存傾向にあることは正直に認めないわけにはいかない。私自身について1つ確かだと思われることは、このような状態に陥っているのは、これらのコミュニケーション・ツールの持っている簡便性・迅速性・有用性の虜になったからではなく、そもそも本来的な人と人との関係において自分にかなり深刻な問題があり、それに対する解決法が見いだせないでいる、あるいはその問題そのものを解消することができないでいるからだということである。例えて言えば、どちらに向かって歩いて行けばよいのかわからず、途方に暮れ、その場に立ち竦み、手近にある道具で何とか状況を打開できないかともがき苦しんでいる、といったところだろうか。この現在の精神の危機的状況の直接の原因は、自分でもわかりすぎるくらいわかっているし、これまでも何度かこのブログの記事の中でほのめかすような仕方で触れてはきたが、これは相手のあることなので、その相手が特定されるような書き方は慎重に避けなくてはならない。それに問題はもっと深いところにあると思われる。では、その問題とは何か。