内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

何やらゆかし

2013-08-11 07:00:00 | 詩歌逍遥

 フランスのノルマンディー地方にある Cerisy-la-Salle という村に、もともとお城だった建物とその周囲の建物を宿泊施設として改装して、毎年多数の研究集会が行われている文化センターがある。このセンターの創設は1952年だが、別の場所での前身の活動の歴史も含めると、その文化活動には百年以上の歴史がある。
 2008年8月末の一週間、« Être vers la vie »(「生への存在」)というテーマをめぐって、そのセンターで開催された研究集会に参加したことがある。私自身発表者の一人として西田哲学の生命論について話し、他の発表について参加者と議論することを主たる目的として来たのだが、その集会が始まってから、日本から来られた方の一人の発表要旨をフランス語に訳し、さらにはその方の日本語での発表をほとんど原稿なしで逐次通訳することを依頼されるという、想定外の事態が発生してしまった。おかげで集会の中日、他の参加者たちは近隣へドライブや観光に出掛けている間、私は独り、元厩舎を改装した宿泊施設の中の自室に籠り、翻訳と通訳の準備に没頭せざるを得なくなった。他の宿泊者が出払って静まりかえった建物の中で、窓外の瑞瑞しい緑に満たされた田園風景で時々目を癒しながらの孤独な作業であった。
 その発表要旨の中に、松尾芭蕉の『野ざらし紀行』の中の有名な句が引用されていた。

 山路来て何やらゆかしすみれ草

これをどうフランス語に訳すかで頭を悩ませた。自分一人ではすぐに妙案も浮かばす、ちょうど期間を同じくして同センターで開催されていた、フランスの詩人ジェラール・ド・ネルヴァルについての研究集会に参加していた日本人研究者の方たちに助けを求めた。何人かの研究者の方が、同研究集会の参加者であるフランス人研究者の何人かのアドヴァイスも考慮しながら、いくつか試訳を作ってくださった。ところが、不遜にも私自身がそのどれにも満足できず、結局私訳を作り、それをフランス人の参加者の何人かに見せ、他の試訳とも比較してもらい、率直な意見を言ってもらった。彼らは日本語がまったくわからないから、あくまでフランス語の語感からの感想である。その結果、嬉しいことに、次に掲げる私の訳が一番支持された。

 En passant par un sentier de montagne, indicible grâce d’une violette.

 芭蕉の句の解釈として妥当かどうかはわからない。しかし、私自身には、その一週間の寝食を共にした合宿のように密度の濃い参加者たちとの交流とともに、このフランス語での「一句」が当時の懐かしい思い出として今も残っている。