内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

受容可能性の哲学 ― 世界に心を身体で〈書き込む〉 ―

2013-08-16 07:00:00 | 哲学

 いよいよ(というのもちょっと大げさですが)、「お盆休み中特別企画」の締めくくりとして、その第3弾を記事として投稿いたします。

 昨日の記事で話題にしたアルザス・欧州日本学研究所での研究集会への参加依頼があったとき、それに応ずるために3つのテーマを主催者に提案した。昨日その要旨を公開したテーマ以外の他の2つのテーマのうちの1つ、「〈主体〉概念の日本における受容史」は、このブログを始めて間もない6月3日の記事で話題にしたパリの「哲学祭」での発表テーマとしてすでに採りあげた。今日の記事では、残りの1つのテーマについての発表要旨(と言っても、今のところ、いつどこで発表するのか決まっていない)を紹介し、これもまた自分のこれからの仕事への促しとしたい。
 この « Une philosophie de la passibilité »(「受容可能性の哲学」あるいは「受苦可能性の哲学」)というテーマが、これまでの、そしてこれからの私の哲学的思索にとって、もっとも重要なテーマであることは、すでに何度かこのブログの他の記事の中でも、明示的あるいは間接的に、述べてきた。この構想は、2003年5月にストラスブール大学に提出した博士論文での結論を出発点としている。それまでの私の仏語での発表論文は、一貫して西田哲学とフランス現象学をテーマとしてきたが、博士論文以後は、発表論文のタイトルの一覧表を見るかぎり、あれこればらばらなテーマについて散発的に研究しているだけのような印象を与えかねないことは自分でもわかっている。しかし、それは、博論の結論から樹状に広がる諸問題をそれぞれが示す方向にさらに深く追求しようとしてのことであり、それら全体を「受容(受苦)可能性の哲学」として包括するのが私の哲学の最終的な全体構想なのである。この構想にとって、西田哲学研究が要の位置にあることは、以下の要旨にもよく表れていると思う。

 本研究は、西田哲学を一つの「受容可能性の哲学」として読むことを試みる。そのために、私たちは西田哲学の2つの根本的かつ独創的な概念である「自覚」と「行為的直観」とから特に着想を得ている。その受容可能性の哲学の構想のための最初の粗描を以下に示す。
 意味は、それを受け入れ、迎え入れることができる身体において、その身体にとって、それとして経験される。そのかぎりにおいて、人間存在はひとつの受容可能的身体である。人間の身体は、この意味で受容可能的であり、その分だけ〈受容可能性〉の現実的な顕現である。この〈受容可能性〉において、そしてそれによって、相異なった時間性が様々な空間において展開されるが、これら諸空間は、その中で働く身体が描き出す種々の構成形態に応じて差異化される。自己身体は、その中で様々な仕方で自らが行動する空間に自らを描き出しながら、意味をその空間に〈書き込む〉。しかしながら、この意味は、自己身体がその中で行動する空間に先立ち、かつ超越するものとして存在するのではない。それどころか、意味は、自己身体が従属するある空間の構成形態と分節として生まれる。この自己身体は、知覚世界がそれに対して、そしてその回りに展開されるところの「配景的中心」である。一言で言えば、意味空間は、そこに自らを〈書き込む〉自己身体と同時に生まれる。