内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

陽の光、最初の影、イマージュ ― 鏡と思惟についての哲学的考察

2013-08-04 07:00:00 | 哲学

 昨夏と今夏の集中講義の準備のために読んできた文献の裡、まだこのブログで言及していない本がもう1冊ある。Agnès Minazzoli, La Première ombre. Réflexion sur le miroir et la pensée, Éditions de Minuit, 1990(未邦訳)。"La Première ombre"(「最初の影」)とは、ダンテの『神曲』「煉獄篇」に由来する言葉で、そこでは「陽の光」を意味する。著者は、〈見る〉ことと〈考える〉こと、〈見えるもの〉と〈考えられたもの〉との相互内在的な関係性について、ニコラウス・クザーヌスの絵画論と、フランドル派の画家たち及びデューラーの作品とに共通して見出される〈像〉(イマージュ)の価値・意味へのアプローチを手がかりに、鋭利な哲学的考察を洗練された文章によって展開する。その射程は、現代哲学の認識論的問題意識にまで届いている。本文は170頁に満たない、見かけは控え目な小著だが、深い奥行きをもった哲学的洞察に富んだ好著である。

 以下は、同著の読書体験が私の中に引き起こした思索の共鳴の1かけらである。

 陽光は、物を照らすと同時に影を作り出す。見えるものと同時にその影をもたらす。創世記冒頭に立ち戻れば、神が「光あれ」と創造の最初の言葉を発されたその瞬間には、昼はただ光に満たされ、それは夜の闇と混じり合うことはなく、したがって、まだ日中にはどのような影もなかったのかもしれない。しかし、〈光〉の誕生は 、天地の間に〈影〉を生じさせざるを得なかった。天地創造の原初的光景が含み持たざるを得なかった、初元の非在の〈影〉からこそ、万有の〈形象〉が生まれる。
 古代伝説の語るところによれば、絵画は、壁に映った影から生まれた。愛する人がまさに遠くへと旅立とうとしているとき、一人の若き乙女がその愛する人の形姿をとどめようとして、その人の壁に映った影の輪郭をなぞったのが絵画の始まりだというのである(序でだが、絵画の誕生という、芸術史の枠組みを超え出た人類史上の大問題と本格的に向き合うためには、ジョルジュ・バタイユの『先史時代の絵画ラスコーあるいは芸術の誕生』をまず読まなくてはならないだろう)。乙女が壁に刻んだ恋人のシルエットは、その人の面影の現前と肉体の不在とを同時に表現している。〈現前〉と〈不在〉、〈光〉と〈影〉、これら対立する両者が同一平面上あるいは空間内に共存させられるまさにそのことによって、両者間の葛藤が強調される。
 ものを見る、あるいは考えるとは、どういうことなのか。私たちは何を見、何を考えているのか。なぜそのものを見ることができ、考えることができるのか。私たちが何かを見ること、考えることができるのは、その何か自体が直接見られ、考えられるからではなく、それらの〈分身〉あるいは〈反対物〉が他所に〈映されうる〉からにほかならない。何かが見えるのは、見えるものが自らの影を他のものに映しうるものであるかぎりにおいてであり、何かを考えることができるのは、その考えが他のものに投射・反映されうるかぎりにおいてのことなのだ。言い換えれば、〈見えるもの〉あるいは〈考えられるもの〉は、そのものが〈奥行〉をもっており、けっして同時に全面的には明らかにはならないからこそ、そのものとして立ち現れうるのである。
 私たちが「何かを見る」というとき、それが〈見えないもの〉の現前を必然的に伴うとすれば、何も考えずに見るということはありえない。私たちが「何かを考える」というとき、見えるものにおいて、あるいは見えるものを通じて、〈見えないもの〉を捉えようとしているのだとすれば、何も見ずに考えることはできない。〈見る〉ことと〈考える〉こととは、相互に前提し合い、互いに嵌入し合っている。このような視覚と思考との関係をめぐる事物の認識可能性の問題を考えるのに、鏡はとりわけ意味深く魅惑的な〈場所〉を私たちに開示してくれる。鏡および鏡像の価値・意味・身分をめぐるさまざまな問いが、西洋の文化史において、古代から中世を介して近代・現代まで、宗教・神話・文学・哲学・科学等の諸分野で、繰り返し問われてきたのも、それゆえのことだと言えるだろう。